「妙好人(みょうこうにん)」-才市(さいち)-その8

2013-05-03

阿弥陀仏の慈悲の心すなわち大悲(だいひ)により、阿弥陀仏を信じて阿弥陀仏の名前(念仏)を唱える者は、凡夫のままで無条件に極楽浄土に成仏出来るというのが、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)の浄土教の教えです。

「南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)」
という「念仏」の「南無(なむ)」とは、心から帰依(きえ)するという意味です。

つまり「南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)」とは、
「阿弥陀仏(あみだ-ぶつ)に心から帰依し、阿弥陀様(あみだ-さま)の救いを信じます。」という意味です。

禅仏教は、「自力」の教えと言われます。それは、あくまでも、自分で修行して、自分の努力で、仏様の境涯に近づいていくことが教えの眼目だからです。本来の仏教は、お釈迦様の時代から、「自力」の教えでした。

それに対して、浄土教は、「他力」の教えと言われます。仏道修行を全うできない凡夫のために、いや、悪人と言われるような煩悩(ぼんのう)まみれの凡夫をすくために、阿弥陀様(あみださま)のほうから救いの手を差し伸べてくれるのです。

凡夫の側に要求されるのは、阿弥陀様の救いを信じること、信じて念仏を唱えることだけです。

「自力」の修行がときに難行苦行であるのに対して、「他力」の浄土教は、「易行道(いぎょうどう)」すなわち、簡単に救われる道とされます。

それは、サムシンググレートである阿弥陀仏(あみだ-ぶつ)が、人智を超えた不思議な力で凡夫である私たちに働きかけてくれるからです。そのあたりの消息を端的に歌っているのが、次の才市(さいち)の詩です。

わしが聞いたじや、ありません、
わしが聞いたな、ありません。

こころにあたる、なむあみだぶつ、
いまあなたに、打たれ取られて。

わしが、阿弥陀(あみだ)に、なるじやない、
阿弥陀(あみだ)の方から、わしになる。
なむあみだぶつ。
(『日本的霊性』角川文庫版P.263)

才市(さいち)は、自分の力で仏教の教えを聞いたのではないといいます。

「南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)」という「念仏」のほうから、自分の心にあったってくれたというのです。

「阿弥陀(あみだ)の方から、わしになる」というところ、他力信者の面目躍如たるものがあると言えるでしょう。阿弥陀仏の慈悲と救いをそのままに受け取っている才市がそこにいます。

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