「門より入るものは家珍にあらず」

2013-02-20

禅宗、特に臨済宗系で重んじられる禅の本に『無門関』(むもんかん)という古典があります。岩波文庫にも入っていますし、たくさんの注釈書が出ているので、禅に関心のある方は、ご存知の方も多いでしょう。
 
もっとも『無門関』は、禅問答の問題集のような本なので、それ自体を読んでも、必ずしもわかりやすい本ではありません。むしろ極めてわかりにくい本であると言えるでしょう。しかし、著名な禅僧の提唱本(老師がする講話録)を読むと、奇抜なエピソードや逆説的、詩的な表現などに関する講話を通して、禅の伝えようとするものが、そこはかとなく伝わってくると思います。
 
さて、『無門関』の序文に「門より入るものは是れ家珍(かちん)にあらず」という有名な言葉があります。その意味は、有名な禅僧に解説してもらいましょう。

「門から入ってきたものは駄目だ。(中略)その家の宝物じゃない借り物だというんです。(中略)門とは何か。六根門といって目耳とかね、そういうところから見たり聞いたりして頭に描いているものは、そりゃ皆借り物なんです。自分の腹から出たんじゃない、門より入るものは家珍にあらず。人から聞いたのや本で習ったのは駄目ですよ。」
(『無門関提唱』安谷白雲老師著より)

後から身につけた「知識」や「スキル」や「教養」などは、借り物に過ぎないということです。借り物といっても、今自分の手元にあるわけですから、それ自体は価値があります。「知識」や「スキル」を否定するわけではありません。ただ、誰の心にも、その中には、さらに素晴らしい本当の宝物があるということを伝えたいわけです。

この点に関して、岡本太郎は、素晴らしい解説をしてくれていると思いますので、『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著、青春文庫)より引用しましょう。

「人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋に膨らんでくる。」(岡本太郎)

捨てれば捨てるほど、分厚く純粋に膨らんでくる「いのち」こそ、本当の家珍であると言えるでしょう。

「今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的な状況や世間体を考えて自分を守ろうとする。
それでは駄目だ。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。
だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。」(岡本太郎)

「今までの自分なんか蹴飛ばしてやる」という「今までの自分」とは、借り物でいっぱいになっている自分ということでしょう。たくさんの借り物があって、それはそれで役に立つのだけど、そのために、かえって自分が縛られていく。
社会的な状況に従うことを重視しているうちに、いつの間にか、自分らしさを見失っていく。その結果、「新型うつ病」になる人もいるのではないでしょうか。だからそんな自分と闘えと岡本太郎はいいます。闘う方法は、人それぞれでしょうが、禅の修行もその方法のひとつであると思います。

「自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければだめだ。

自分らしくある必要はない。むしろ“人間らしく”生きる道を考えてほしい。
“忠実”という言葉の意味を考えたことがあるだろうか。忠実の“忠”とは〈まめやか、まごころを尽くす〉ということだ。自分に対してまごころを尽くすというのは、自分にきびしく、残酷に挑むことだ。」(岡本太郎)

人間禅道場の白田老師から、「本当にの意味で自分に親切になれ」というお話を何度も伺いました。
人間らしく生きるために、自分にきびしく、残酷に挑むという岡本太郎の言葉は、白田老師の教えと重なって聞こえます。

このような純粋で厳しい生き方は、私たち、普通の人間には、なかなか、真似はできませんが、このような言葉は、私たちの心を洗ってくれる力があると思います。

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