『新緝 森信三全集』について

2013-11-20

さて、明治以降、日本の近代化の過程で、学問は西洋由来の「科学」と同義語となり、学問と人生とは、切り離されて考えられるようになりました。

西洋では、人々の心の中にキリスト教があり、キリスト教が人生の問題を担い、自然科学に代表される「学問」は、人生の問題を正面から取り上げないという棲み分けがなされていたからです。その枠組みが、そのまま日本にも輸入されたのだと思います。

それは、本来、人間学であるべき「哲学」の世界においても、同様だったようです。
西田哲学全盛期に京都大学で学んだ森信三先生ご自身が、京都大学の哲学科には、かなり幻滅されたそうです。

『現代の覚者立ち』p.18~20より

―先生は西田幾多郎の門下生として京都大学で学んでいたが、
かねがね日本の学問の現実遊離性に疑問をいだいてた。

それで、三十三歳の頃、『二宮翁夜話』の巻頭の言葉、
「まことの道は天地不書の経文を読みて知るべし」
によって開眼した、といわれてますね。

【森】 そうです。
その意味では、尊徳は私にとって“開眼の師”です。

一代の哲学者西田幾多郎先生に八年も師事しながら、
最後のところで尾骶骨(びていこつ)のように残っていた
大学的アカデミズムから、完全に解放せられたのは、
その「天地不書の経文を読め」の一語によるものだったからです。

つまりね、それまでの私はいわゆる哲学書の中にこそ、
絶対の真理はあると考えていたのに、
それとは逆に、真理はこの現実の天地人生の唯中に、
文字ならぬ事実そのものによって書かれており、
しかもそれは刻々時々に展開しつつあることに
開眼せしめられたわけです。

―真理は現実の唯中(ただなか)にあり、ですか。

【森】 そうです。
いいかえれば、真理は現実を変革する威力をもつもの
でなければならぬ、ということです。

そしてこの二つが、私の学問論の根本になっているわけです。

森信三先生は、「現実の天地人生の唯中に、文字ならぬ事実そのものによって書かれて」いる真実を学ぶために、「哲学」を超えた、新しい「全一学」を提唱されたのでした。

「全一学」の最初の研究書である『創造の形而上学』(『新緝 森信三全集』第1巻所収)においても、
大宇宙における絶対生命(サムシンググレート?)を探求するためには、「哲学」という言葉では足りず、
「全一の学」あるいは、「全一学」というのがふさわしいと、
たびたび森先生は力説されておられます。

私は、最近、ようやく、『創造の形而上学』を深い感動をもって読み終えたところです。

本来は、『創造の形而上学』に関する感想をブログに書きたいと思っておりました。
しかし、何分、高度な理論書である上、1ページが約1千字もある『全集』の中で、300ページも占める大著であるため、一読しただけでは、まともな感想をかけそうにありません。

(ちなみに、普通の本は、1ページが650字程度のため、『創造の形而上学』を普通の単行本にしたら、それだけで450ページほどもある大著になります。)

ただ、晩年の森信三先生が、並々ならぬ覚悟で「全一学」に取り組んだ気迫が、ひしひしと迫ってくる名著であるとだけ、ご報告させていただきます。

いずれ、森信三先生の全一学に関しては、『新緝 森信三全集』の本を読みながら、少しずつブログにアップしていきたいと考えています。

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