『論語』の「天」と禅について①

2012-12-15

孔子は、『論語』の中で、何度か、「天」について言及しています。

孔子にとって、最愛の弟子である顔淵(がんえん)がなくなったときに、
孔子は、悲痛な悲しみを「天が自分をほろぼす」と表現しています。

「ああ、天がわしをほろぼしたのだ、天がわたしをほろぼしたのだ」

「天(てん)予(われ)を喪(ほろ)ぼす、天(てん)予(われ)を喪(ほろ)ぼす。」

『論語』先進第十一より

また、宋の国で桓(かん)タイという人物に殺されそうになったときには、
「天が助けてくれるに違いない」といって、弟子たちを励ましたといいます。

「天が、わしにこのような徳をたまわる以上は、天は、わしを助けるに違いない。
桓タイが、いかに凶暴であろうとも、わしを害することなどけっしてできないのだ。」

「天、徳を予(われ)に生ぜり。桓タイ それ予(われ)をいかんせん。」

『論語』述而第七より

また、孔子は、「今の世に自分を本当に知るものがいないが、天こそが自分を本当に知ってくれている」といっています。

「今の世には、わしを知る人がいないことだ。(中略)
人からは知られないが、天だけは、独り、わしのことを知っている。」

「我を知るものなきか。(中略)我を知る者は、それ天か。」

『論語』憲問第十四より

孔子の時代には、「天」とは、「万物を生み出し、これを主宰する偉大な力のあるもの」と一般に信じられていました。
キリスト教の神様のように、明確な人格を持っているわけではないにしても、人智を超える力を持って、世界を生み出し支配する偉大な神様のような存在として、人々に信じられていたわけです。

しかし、孔子の「天」に対する思いは、単純な信仰を超えるものがあったと思います。
孔子は、「天」としか言い表しようのない人知を超えたあるものを深く感じ取って、心から信じていたのでしょう。
『論語』の言葉には、孔子の「天」に対する深い確信を感じます。

では、『論語』の「天」とは、いったい何でしょうか?
私は、禅でいうところの「仏性(ぶっしょう)」と、本質的に同じものであると考えています。

それでは、「仏性(ぶっしょう)」とは、何でしょうか?
臨済宗の公式HP(臨黄ネット)では、
「自分の心の奥底に存在する仏様となる可能性」という意味の説明がなされています。

もちろん、それが正しい見解だと思いますが、
「仏性(ぶっしょう)」とは、各人の心の奥底にあると同時に、個人の意識の枠を超えた存在であると私は考えています。

仏性については、比喩的に「宇宙の大生命である」と説明されることがありますが、私には、この表現が体験的にしっくりきます。

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