『論語』の「天」と禅について②

2012-12-15

「仏性(ぶっしょう)」は、宇宙の一部分である私達の心の中にも当然にありますが、

「山川草木(さんせんそうもく)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」
<山も川も、草木も、すべてが仏の姿である>

というお釈迦様の言葉が表すように、あらゆる自然の根底にあるものだと思います。

ただ、「仏性(ぶっしょう)」は、人知を超える大きな面をもっていますから、人間の言葉で簡単に説明することはできません。

民族や信ずる思想や宗教によって、とらえ方も異なれば、名前も、説明方法も異なるわけです。人間にとっては、簡単に全体像をとらえきれない大きな存在であるといえるでしょう。
したがって、どれか一つの説明が正しいということではなく、どれもが、ある面では正しいのではないかと思います。

実は、同じものをキリスト教では「全知全能のヤハウェの神」ととらえ、
お釈迦様は「仏性(ぶっしょう)」ととらえ、
孔子は「天」ととらえたのだと私は考えています。
富士山に登る道はいくつもあっても、最終的には、同じ頂上に登り着くという考え方です。

これは、西洋の一神教的な発想には、なじまないかもしれませんが、
日本人で禅をある程度やった人には、自然な感じ方ではないでしょうか。

さらに言えば、ユングの「集合的無意識」(普遍的無意識)も、現代の世界的な科学哲学者であるアーヴィン・ラズロ博士が唱える「アカシック・フィールド」も、実は「仏性(ぶっしょう)」のことを異なる角度から説明しているものであると、私は考えています。

「仏性(ぶっしょう)」のことを言葉で説明しようとすると、様々な表現がありえますが、禅の場合は、これを坐禅という一種の瞑想法によって、直観的に把握していくものです。

禅では、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といいますが、いくら言葉で説明しても、「仏性(ぶっしょう)」のことは、言葉だけでは正確に伝えきれないという意味です。
言葉による説明は「あれが月だよ」と月を指し示す指先であり、
その指の先の空に本当の月があるというのが、禅の発想法です。

言葉の先にある「仏性(ぶっしょう)」を把握するために、坐禅の修行法があるわけです。

しかし、坐禅をしなくても、山や海辺で大自然の荘厳な風景に深く感動するとき、
実は、すでに誰もが「仏性(ぶっしょう)」の世界に、無意識のうちに触れています。

そのようなときには、日常生活のストレスも忘れて、心が洗われるような感じがするでしょう。そこまで深い感動をしなくても、自然の中で、心身が癒され活性化するのは、ハイキングや森林浴をするときに誰でも感じることができますね。

「仏性(ぶっしょう)」の世界に触れるということは、日常のストレスで疲れた心身を癒して、心身を活性化してくれるものです。

しかし、悲しいかな、私のような凡人は、休みの日に美しい自然にふれて深い感動をしても、日常生活の中に戻ると、いつの間にか日常生活に追われて、その感動を見失っていくことが多いわけです。

その点、毎日、短時間でも坐禅(イス禅を含む)をしていると、家に居ながら、心に「仏性(ぶっしょう)」を感じることができるようになり、ストレス解消にもなり、心の平安を得て、心身の活性化につながります。

さて、次回からは、しばらく『論語』を離れて、「禅」の話をしたいと思います。

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