仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を教えるもの

2013-11-29

沢木老師のいう「ゆきつく所へゆきついた人生」という言葉は、
道元禅師の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の次のところに出典があると内山老師は解説されます。

<内山興正(こうしょう)老師の解説>
『正法眼蔵』「帰依三宝(きえさんぼう)」巻にこう出ている。

「問ふ、何が故に、偏(ひとえ)に此の三に帰するや。
答ふ、此の三種は畢竟 帰処(ひっきょう-きしょ)なるを以(もっ)てなり」

ここで三種とは、仏法僧の三宝のことをいいますが、
この三に帰するのは、いったいなぜかというに、

それに答えて、これは畢竟帰処だからだ、という。
畢竟(ひっきょう)とは、「つまり」ということ。

だから「なぜ仏教を信じなければならないか」というと、
「それは仏教こそは、われわれ人生の、つまり帰る処だから」
というのです。

道元禅師の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)にある「畢竟帰処(ひっきょう-きしょ)なるを以(もっ)てなり」という言葉は、仏教の教えこそは、私たちの心の帰り着くところという意味だと内山老師は解説されます。

『正法眼蔵』の原文にある「帰依(きえ)」とは、「自己の身心を捧(ささ)げて信順すること。絶対の信をもってよりどころとすること」という意味で、全心身をもって心から信ずるということです。

このように絶対的に仏法に帰依することができるのは、もともと、そこが私たちの帰り着くところ、心の故郷だからと内山老師は受け取られたわけです。

「それは仏教こそは、われわれ人生の、つまり帰る処だから」という言葉だけを聞いたならば、信仰心だけを強調する、狂信的な言葉にも聞こえるかもしれません。

しかし、内山老師の場合は、単なる狂信ではなく、心からの共鳴だったのでしょう。

「何のために生きるのか?」と人生の意味の問題に、中学生の頃から真剣に悩んでこられた内山老師は、30歳近くになって、生身の沢木興道老師のお姿に接して、そこに人生の目標を見い出したのでした。

理屈でもなんでもなく、「ただこの人について行きたい」という思いが、内山老師の心の底から溢れ出たのだと思います。

内山老師にとっては、沢木老師と禅の教えは、精神的な迷子状態であったから脱出する道であり、まさに「帰り着くべき場所」であったのでした。

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