無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-17

さて、無門和尚(むもん-おしょう)のこの公案に対する「偈頌(げじゅ)」を見ていきましょう。
「偈頌(げじゅ)」とは、本則(公案)に対する禅的な批評を歌った漢詩です。

<頌(じゅ):無門和尚による禅的な漢詩>の書き下し文

頌(じゅ)に曰(いわ)く

過ぎ去(さ)れば、抗塹(こうざん)に堕(お)ち、
回(かえ)り来(きた)れば、却(かえ)って壊(え)せらる。

者些(しゃさ)の尾巴子(びはす)、
直(じき)に是(こ)れ甚(はなは)だ奇怪(きかい)なり。

<頌(じゅ):無門和尚による禅的な漢詩>の現代語訳

頌(うた)って言う、

通り過ぎれば、穴に落ち、
引き返しても、粉みじん。

いったい尻尾(しっぽ)というやつは、
なんとも奇怪千万(きかいせんばん)さ。

(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)

この偈頌(げじゅ)については、天龍寺派の元管長・平田晴耕(ひらた-せいこう)老師の『無門関を読む』(柏樹社、1982年刊)の解説が分かりやすいと思いますので、それを引用いたしましょう。

まず最初の一句「通り過ぎれば、穴に落ち、」(原文「過ぎ去(さ)れば、抗塹(こうざん)に堕(お)ち、」という部分については、次のように説明されています。

過ぎ去って一切を空(くう)、
一切を無(む)にしてしまったところが、過ぎ去った世界です。

(牛の)しっぽも過ぎ去ってしまったら、
なんにもないという空(くう)の世界におちてしまう。
これはどうも難しい。
(平田晴耕著『無門関を読む』より)

この公案において、五祖法演(ごそ-ほうえん)禅師は、「牛の大きな体は通り過ぎたのに、牛の尻尾(しっぽ)だけは、通り過ぎることはできないのは、なぜか?」と問うています。

無門和尚(むもん-おしょう)は、それを受けて、「牛の尻尾までが通りすぎたら、何にもないという空(くう)にかたよりすぎた境地になる。

これは、「頑空(がんくう)」といって、禅的には、否定されねばならない」というのです。

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