無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-09

つぎに『無門関(むもんかん)』第38則「牛過窓櫺(ごか-そうれい)」(牛が窓をとおり過ぎる)の現代語訳を掲載します。こちらは、岩波文庫の『無門関』(西村恵信・訳注)から引用しています。

<本則(ほんそく)>:公案の提示
五祖(ごそ)が言われた、
「たとえば水牛が通り過ぎるのを窓の格子越しに見ていると、
頭、角(つの)、前脚(まえあし)、後脚(うしろあし)と
すべて通り過ぎてしまっているのに、
どういうわけで尻尾(しっぽ)だけは

とおり過ぎないのだろうか?」

<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>

無門は言う、

「もし、この事態に対して、
逆のほうから真実の眼を持って見抜き、
ハタラキのある一句を投げかけることができるならば、
自分が被(こうむ)っている、あらゆる恩に報いることができ、
またこの世界で悩み苦しんでいる、あらゆる生き物を救うことも
できるに違いない。

しかし、そういうことがまだできないとあらば、
 ぜひとも、あの水牛の尻尾(しっぽ)だけは、
 見届けておくことが先決であろう。」

<頌(じゅ)>・・無門和尚による禅的な漢詩
頌(うた)って言う、

通り過ぎれば、穴に落ち、
引き返しても、粉みじん。
いったい尻尾(しっぽ)というやつは、
なんとも奇怪千万(きかいせんばん)さ。

(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)
 この本則(公案)もまた、奇抜な人の意表を突くものです。窓越しに表の道を牛が歩いて通り過ぎるのを見ていると仮定した問いになっています。
牛はゆっくりと歩きますから、まずは、鼻先から頭と角(つの)が通り過ぎ、やがて大きな牛の身体と前足と後ろ足、さらにお尻と通り過ぎて、さいごの牛の尻尾(しっぽ)も大部分、通り過ぎます。

それなのに、なぜか、「尾巴(びは)」すなわち「尻尾(しっぽ)の先っぽ」だけが通り過ぎることができません。それは、なぜなのか?という問いです。

もちろん、ここでいう牛とはたとえ話であり、
「牛の尻尾の先に例えられているものとは、何か?」
というのが、この本則の眼目になります。

それに対して、「評唱(ひょうしょう)」は、『無門関』の著者である無門和尚(むもん-おしょう)が禅的な批評をつけたもので、公案の眼目を示すものでもあります。また、「頌(じゅ)」は、無門和尚が、この公案の精神を漢詩の形で表したものです。

これらの詳しい内容については、老師方の提唱録をもとに次回以降に説明していきます。

Copyright© 2012 ビジネスマンの人間力育成をサポートする有徳経営研究所株式会社 All Rights Reserved.