無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」

2014-08-06

無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」の公案は、お釈迦さまや弥勒菩薩(みろく-ぼさつ)や歴代の禅の祖師(そし)方が悟った「仏性(ぶっしょう)」を「他(かれ)」と表現し、「他(かれ)」を悟ってみよ!と呼びかけるものです。

「仏性(ぶっしょう)」とは、二元対立の相対を絶した絶対の存在のことを仏教用語で表現したものです。禅の公案では、「無字」とか、「本来の面目」とか、「柏の木」とか、「麻三听(まさぎん)」とか、さまざまな呼び方をされています。

近代的においては、西洋の哲学や心理学の影響を受けて、「仏性(ぶっしょう)」のことを「心の本体」、「絶対主体」「宇宙的無意識」などとも表現されます。

二元対立を絶しているということは、世界と自分の対立もなく、サムシンググレート(神仏)と自分との対立もなく、大宇宙とサムシンググレートと自分とが一になっていることを言います。今風の言い方をすれば、「ワンネス」(一つであること)と言ってもよいかもしれません。

そもそも、「絶対の世界」は、相対的な言葉では表現しきれないものです。そのため、「仏性」といい、ひとつの符牒(ふちょう)であり、あだ名のようなものです。それを他の宗教や宗派では「神様」、「阿弥陀(あみだ)さま」など様々な名前で呼んでいるのではないかと禅者は考えます。

禅でいう「仏性(ぶっしょう)」すなわちこの公案でいう「他(かれ)」とは、自分の外側にあるものではなく、誰もが心の中に持っている隠れた宝物です。

私たちの心は、風の強いときの湖のようなもので、表面も波立ち、水中も水が乱れて濁っているような状態です。
それが、禅や瞑想や深い祈りによって、次第に波が収まり、水が静かになってきます。十分に水が静かになり、澄んできたときに、湖の底にある宝石のような宝物に気がつきます。

そのとき、宝物(仏性)と湖(私たち自身)は一つであることにも気がつきます。本当の自分と出会ったような感覚を感じ、静かな(あるいは爆発的な)深い喜びに満たされます。

「他(かれ)」と出会うとは、「他(かれ)」と一つになることですが、その時には、他人から教わらなくても、自ずと自分で気がつくので、「悟り」というのでしょう。

さて、続いて、本則(公案)に対する無門和尚(むもん-おしょう)の評唱を見ていきましょう。評唱とは、公案に対する禅的な批評です。無門和尚(むもん-おしょう)の見識を示している場所でもあります。

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