真の仏はどこにいる?「趙州の三転語(さんてんご)」

■答えより問題の発見

先月につづいて、中国・唐時代の偉大な禅者である趙州(じょうしゅう)の話を紹介いたします。趙州は、「口唇皮上(くしんぴじょう)に光を放つ」(口元から光があふれる)と称えられるほど、言葉を絶妙に用いて弟子を指導した禅の巨匠です。趙州(じょうしゅう)には、たくさんの優れた禅話がありますが、まず「趙州三転語(じょうしゅうさんてんご)」をご紹介いたしましょう。
「転語(てんご)」とは、「迷いを転じて悟りに至らしめる言葉」という意味です。山田無文老師は、「(転語とは)悩みに行き詰っている頭の中をすっかり回転して、新しい道を開いてくれる言葉である」と解説されています。その「転語(てんご)」を三つ続けたものを「三転語(さんてんご)」といいます。
「転語(てんご)」は悟りに導くための言葉とはいえ、禅の指導の場では、「答え」ではなく、自分で考え、自分で気づかせるための「問い」として示されます。答えは、修行者自ら悟らなければなりません。
問題しか提示しない指導法は不親切な感じがするかもしれませんが、答えを教えると、模範解答の単純暗記になるおそれがあります。単純暗記では、心から納得するほどの深い理解に至らないので、応用が効きません。
禅では、歴史上の禅問答を例題として与えて、自分で納得するまで取り組ませることで、現実の問題を解決できる心の力がつくと考えます。答えを教えるよりも問題を与えることが、相手に対する本当の親切になるということです。
私の公認会計士としての経験からいいますと、ビジネスにおいても「現実に起こっている問題を正確に把握できないから失敗する」というケースが多々あるように思います。事実関係を分析して問題点を明確にできれば、おのずと答えが見つかることが多いものです。そうでなくても問題解決のスタートラインに立つことができます。
しかし、問題をきちんと把握できないと何度も同じ失敗を繰り返し、ひどいときは問題を意図的に隠ぺいして、大損害につながることもあります。企業の粉飾決算などもその一例です。粉飾決算の多くは、経営陣が現実に起こっている問題を隠して解決を先送りしようとすることから起こります。問題を先送りすると、最初はそれほどでもなかった問題がどんどん大きくなって、最後は企業の存続を危うくするほどの巨額粉飾につながったりします。
問題を隠したくなる原因は、しばしば責任者の自己保身にあります。自己保身は生物としての生存本能に由来するのでしょうから、ある程度は止むを得ない面があるでしょう。昔の誇り高い武士のように一切言い訳をせず、失敗の責任を潔く認める勇気を持ちたいものですが、私のような凡人は失敗すると、ついつい失敗を隠そうとしたり、言い訳をしたりします。
仏教では、そのような自己保身がなされる根本原因は、「三毒(さんどく)」という根源的な三つの煩悩(ぼんのう)にあると教えています。「三毒」とは、自分の好むものをむさぼり求める「貪欲(とんよく)」、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する「瞋恚(しんに)」、ものごとに的確な判断が下せずに迷う「愚痴(ぐち)」の三つの煩悩です。この三つから様々な煩悩が派生的に発生します。
煩悩をコントロールできれば、ものごとを素直に見て客観的に判断できるようになるでしょう。そうなれば問題を先送りせずに済むのですが、頭では理解できても、それを実践することは簡単なことではありません。
三毒に代表される煩悩をコントールするために仏教のさまざまな教えがあるわけですが、禅の場合はとくに「自己を明らかにする」ことに重点をおきます。自分で自分を見失うと自信を失い、ものごとを素直な目で見ることができなくなり、迷いに迷いを重ねて悩み苦しむからです。
凡夫である私たちは、現実の問題に振り回されて、いつのまにか自分を見失って悩むことが多いのですが、そのようなときに自分を見つめ直すためのヒントとして、禅の「転語」が参考になると思います。

 

■仏さまはどこにいる?

趙州(じょうしゅう)は、三転語(さんてんご)として、次の三つの言葉を残しました。第一は、「泥仏(でいぶつ)水を渡らず」(泥で作った仏さまは、水を渡ることができない)というものです。昔の仏像には「塑像(そぞう)」といって、木の心に粘土などの泥を盛り上げて作る技法がありました。「塑像(そぞう)」は奈良時代に流行った技法で、今日でも法隆寺や東大寺に素晴らしい塑像(そぞう)の仏象が残されています。
このような塑像(そぞう)は土や泥でできているわけですから、水に弱く水に落ちたら崩れてしまいます。第一の転語は「お寺に飾ってあるありがたそうな仏さまでも、それが泥でできたものであれば、水にあたっただけで溶けてしまう。そんなものは本当の仏さまではない!」という意味です。
第二の転語は、「金仏(きんぶつ)炉(ろ)を渡らず」(金属で作られた仏さまは、溶鉱炉を渡ることはできない)というものです。奈良の大仏は、金銅製の仏像として世界最大級のものですが、源平時代と戦国時代に2回も焼け落ちており、現在の大仏は江戸時代に修復されたものです。頑丈な金銅仏といえども溶鉱炉のような高熱には勝てません。第二の転語は、「立派に光り輝く金銅仏も溶鉱炉では溶けてしまう。そんなものは本当の仏さまではない!」という意味です。
最後の三つ目の転語は、「木仏(もくぶつ)火を渡らず」(木で作った仏さまは、火を渡ることはできない)というものです。これは説明の必要はないでしょう。「立派な仏さまも木製ならば火事で燃えてしまう。そんなものは本当の仏さまではない!」という意味です。
多くの人々が手を合わせて拝む仏像は、いずれも本物の仏さまではないというわけですが、この否定ばかりの「三転語(さんてんご)」の裏には、「では、本当の仏さまとは何か?」という問いが潜んでいます。
この問いに対するヒントとして、趙州(じょうしゅう)は「真仏(しんぶつ)屋裏(おくり)に坐(ざ)す」といっています。「本当の仏さまとは泥や金や木で作ったものではない。生きた仏さまは、めいめいの心の中にあるのじゃ!」ということで、それを自ら悟りなさいと修行者に示しています。
「自分の心こそ真の仏である」とは、言いかえれば「人間は誰もが生まれながらに、かけがえのない尊い存在である」ということです。禅では、寺の中で最も尊いはずのご本尊様よりも、私たちの心の方が尊いのです。それを忘れて、外側にあるお金や地位・名誉など「物」を追いかけ過ぎて自分を見失うと、私たちは不必要に悩み苦しむことになります。
逆説的ですが、自己保身の煩悩に迷わずに、「捨て身」になって問題にぶつかっていくことができれば、かえって解決の道が見つかることでしょう。問題から逃げようとすればするほど、問題が大きくなって闇の中に呑みこまれていきます。開き直って問題に直面すれば、自分の中から知恵の光が湧いてきます。自分の心の価値を信じることの大切さをこの禅話は教えています。

 

■門は開いているぞ

「趙州三転語」の話は、禅の理念を端的に示しています。これはこれで尊い教えですが、禅話の本当の面白さは、師匠と弟子との丁々発止の問答の中に最もよく表れます。次に、真仏の境涯にある趙州に挑んだ修行僧との問答をご紹介いたしましょう。
ある修行者が初対面の趙州に向って「いかなるか、これ趙州」(趙州とは、いかなるものか?)と問いました。趙州とは、もともとは趙州和尚の禅道場があった都市の名前です。
昔の中国では、貴人に対して実名を呼ぶのは失礼に当たるとされました。そのため、禅の世界でも大禅者は、しばしば実名ではなく、禅道場を構えていた地名で呼ばれました。趙州も「従諗(じゅうしん)」という諱(いみな)ではなく、道場を構えていた「趙州」という地名が通り名となっていました。
しかし、世間的には「趙州」は都市の名前ですので、この修行者はその街の名前に引っ掛けて「趙州とはどんな所ですか?」と質問しています。その本意は、「趙州和尚の実力は、どの程度のものですか?」というぶしつけな質問です。
これに対して趙州は「東門、西門、南門、北門」と答えました。当時の中国の都市は、街全体を城壁で囲んで東西南北に門を作り、昼間は門を開けても、夜は不審者が侵入しないように門を閉めていました。趙州もまた街の名前に引っ掛けて「趙州には、東西南北に四つの門がある。今は昼だから、どこからでも入れるぞ。さあ、門内に入って自分の目でわしの境涯を確かめてみなさい」と答えたのでした。

「論語」の中にも、
「二三子(にさんし)、我を以って隠(かく)せりと為(な)すか。吾(われ)隠(かく)すこと無きのみ。吾(われ)は行なうとして二三子(にさんし)と与(とも)にせざる者なし。是(こ)れ丘(きゅう)なり。」(述而(じゅつじ)第七)
という一章があります。
孔子の教えが広く深いことに、いくら学んでも追いつけないという思いがした弟子たちは、孔子が肝心のところを秘伝のようにして隠しているのではないかと疑いました。それに対して孔子は、「おまえたちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は行動をすべて諸君たちと一緒にして、すべてをさらけ出している。それが私という人間なのだ。」と答えました。(「丘(きゅう)」とは、孔子の本名です)
趙州の「東門、西門、南門、北門」も、孔子と同じで「隠すことは何もない。見たままじゃ。」という意味です。それを説明的にいわずに、相手の質問の矛先を取ってさらりと返したところに、趙州の偉さがあるとされます。

偉大な禅者として尊敬されていた趙州に向って、「あなたはどの程度のものですか?」と修行者が聞くことは大変失礼なことです。しかし、趙州の時代には、仏法の真髄を求めるための禅問答として、このようなずけずけとした問いが普通に行なわれていました。それに対して、師の方は、「喝(かつ)」と怒鳴ったり、棒で打ったり、厳しい言葉で対応したりします。
禅の場合は、正解は一つではありません。その人の肚の中から出てきた真実の対応は、みな正解といえます。しかし、そこにおのずからその人の風格が表れます。趙州のように余裕綽々と「門は開いておる。さあ見てごらん。」とさらりと答えることができる禅匠は、歴史上にもなかなかいません。趙州の偉大なるゆえんです。
趙州の答えは、自分の心を本当に大切にして磨いていくと、肩に力の入ったストレスフルな生き方を脱して、心に余裕のある対応ができるようになることを私たちに教えています。

 

■松下幸之助氏の言葉に学ぶ「自問自答」

趙州の禅問答に関して、松下幸之助氏の次の言葉が思い出されます。

「やっぱり大事なことは、他人の評価もさることながら、まず自分で自分を評価するということである。自分のしたことが、本当に正しかったのかどうか、その考え、そのふるまいにほんとうに誤りがなかったかどうか、素直に正しく自己評価するということである。
そのためには、素直な自問自答を、くりかえし行なわねばならない。みずからに問いつつ、みずから答える。これは決して容易ではない。安易な心がまえで、できることではないのである。しかし、そこから真の勇気がわく。真の知恵もわいてくる。」(『道をひらく』 p.99より)

松下幸之助氏は、素直な自問自答によって自分を評価することの大切さを述べています。素直な自問自答は決して容易ではないのですが、そこから真の勇気、真の知恵がわいてくると教えています。
禅問答が、問題ばかりで答えが明示されないのは、自問自答を促すためでもあります。それでも、禅堂では老師に参禅する機会があり、そこで自問自答の結果を点検してもらえます。多くの場合、弟子の答えは、にべもなく否定されるのですが、何度も否定されていくうちに、次第に心の眼が開いていきます。その過程は相当苦しいものがありますが、私たち凡人に知恵の眼を開かせるための方便として、達磨大師(だるまだいし)から千年以上の時間をかけて、工夫に工夫を重ねてあみ出された指導法です。
しかし、普通の忙しいビジネスマンは、禅堂で老師に指導を受けるチャンスも時間もないでしょう。では、どうしたらよいかといえば、松下幸之助氏のように日常の仕事を通じて、「自分のしたことが本当に正しかったのかどうか?」を素直に自問自答することが大事であると思います。現実の問題を直視して自問自答していくことは、禅の古典的な公案以上に、私たちの心を磨いてくれるでしょう。
自問自答さえすれば、他人の評価は不要かといえば、決してそうではありません。松下幸之助氏も、他人の評価に対して、

「うれしくなって心おどる時もあれば、理解の乏しさに心を暗くする時もある。一喜一憂は世の習い。賛否(さんぴ)いずれもありがたいわが身の戒(いまし)めと受けとりたい」(『道をひらく』 p.98より

と書かれています。
禅堂の修行では、老師が「他人の評価」をしてくれますが、ビジネスの世界では、取引先や上司や同僚、ひろくは世間から常に結果を評価されます。その評価を素直に受け止め、「わが身の戒め」としていくことが、何よりの向上の道であり、心の修行となるのではないでしょうか。

 

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