禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(18)開催しました。

2015-09-15

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(18)開催しました。

この勉強会では、誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習します。
その後、『無門関』(むもんかん)、『碧巌録』(へきがんろく)など禅の古典から、現代に生きる私たちにも役立つ禅の話をご紹介させて頂きました。

最高の道は難しくない(至道無難:しどうぶなん)

■えり好みが問題だ(1/2)

中国に禅を伝えたとされる達磨大師(だるま-だいし)から三代目の祖師である三祖ソウサン大師に『信心銘(しんじんめい)』という禅の心を歌った詩があります。この禅詩は禅宗ではとても大事にされており、今日でもお経として法事の席で読まれたりします。

さて、三祖の『信心銘(しんじんめい)』の冒頭に、
「至道無難(しどう-ぶなん) 唯嫌揀択(ゆいけん-けんじゃく) 
ただ憎愛(ぞうあい)なければ、 洞然(とうねん)として明白(めいはく)」
という言葉があります。

これは現代語訳すると「至道(しどう)という最高の悟りは難しいものではない。ただ、えり好みをすることを嫌う。憎むとか、愛するとかいう感情にとらわれなければ、この世はからりとして明白この上ない。」という意味です。

禅の世界観は、宇宙全体いたるところが道の中に生かされており、すべてが一つ(ワンネス)なので好き嫌いの入る余地がないというものです。

この世界は、好き嫌いとか、貧富、賢愚などの差別が生まれる以前の絶対平等が本質であり、私たち人間も世界の一員として、誰もが絶対平等の素晴らしさを持っています。そのことを坐禅によって悟ろうとするのが禅の修行です。

そもそも、絶対平等の平和な世界に生きているはずの人間が悩み苦しむのは、憎むとか愛するとかいう差別感情にとらわれるからです。

そのような差別への捉われから脱すれば、この世はからりと晴れ渡った青空のような明るく楽しい世界になると『信心銘』は教えています。

『信心銘』は、禅の理想を短くも美しい言葉で歌いだしていますが、この禅詩をことのほか愛したのが、中国唐代に活躍した趙州和尚(じょうしゅう-おしょう)でした。
「至道無難(しどうぶなん)」についての禅問答が伝わっておりますので、その一つをご紹介しましょう。

ある日、趙州(じょうしゅう)は、弟子たちに問いかけました。
「至道(しどう)という最高の悟りの世界は、難しいものではない。ただ、えり好みをすることを嫌うという言葉が『信心銘』にあるが、少しでも言葉で表現すれば、
それは「えり好みという迷い」になるか、「からりと明るい悟り」になる。
しかし、わしは、その「悟り」の世界にもおらんのだ。お前たちにそれが判るかな?」

偉大な禅僧として尊敬されていた趙州(じょうしゅう)が、「迷い」の世界にいないというのは分かりますが、「悟り」の世界にもいないと言うのは奇妙な話です。

「悟り」を目指して修行している弟子たちからしたら、師匠が変なことを言いだしたので、真意は何かと、さっそく一人の弟子が禅問答を挑みました。
どうぞ、続きをお読みください。

■ 悟りなど知らんわい!(2/2)

「わしは、迷いの世界はもちろん、からりと明るい悟りの世界にもおらん!」と趙州(じょうしゅう)が奇妙なことを言いだしたので、一人の修行僧が問いかけました。

「和尚が悟りの世界にいないのであれば、あなたはいったい何を大切に守るのですか? 守りようがないではありませんか!」と舌鋒するどく師匠の趙州(じょうしゅう)に迫りました。

「迷いでもない、悟りでもないという和尚の境涯を示してくれ!」という急所を突いた問いです。

ところが、趙州(じょうしゅう)は、「そういう難しいことは、わしも知らんなあ」と一見すると、はぐらかしたかのような、とぼけた答えをしました。

原文では「我もまた知らず」となっておりますが、禅の世界では、趙州(じょうしゅう)は素晴らしい答えをしたものだと称賛されています。

趙州(じょうしゅう)のように、本当に至道(しどう)という最高の「悟り」が身についていたら、「悟り」ということを忘れてしまうのです。無意識にさらさらと行う日常のことがすべて「悟り」の世界の表れになるといわれています。

私たちが身体にあわない服を着ているときは、窮屈だったり、ゆるかったり、着心地の悪さをとおして服を意識します。しかし、身体にぴったり合った服をきるときは、服のことを忘れて快適に過ごします。

禅の悟りもそれと同じで、本当に悟りきった趙州(じょうしゅう)のような大禅者は、悟りのことを意識せずに悟りの世界に遊ぶことができるようになります。それを示した言葉として、趙州(じょうしゅう)の「わしも知らん!」という答えは禅の歴史に残る名文句とされています。

しかし、この修行僧は納得がいかず、「和尚が知らないというのであれば、なぜ悟りの世界にもいないなどというのですか? 知らなければ言いようがないではありませんか?」と趙州(じょうしゅう)の言葉尻をとらえて食い下がりました。

この僧侶は頭が良い理屈屋だったようです。しかし、禅の悟りの世界は、理屈を超えた絶対平等の世界ですから、理屈であれこれ議論しても、かえって遠ざかることになります。自分の心をじっと見つめることが大事であり、右脳によって直観的に知る世界です。左脳による理屈をいくら積み重ねても悟りには至りません。

趙州(じょうしゅう)は、そのことを教えようとして、修行僧に対して「言うだけ言ったのだから、さっさと帰りなされ!」と突き放したのでした。理屈屋の修行僧にあれこれと言葉を重ねても、かえって彼の迷いを深めることになります。むしろ、「理屈で考えすぎずに坐禅して静かに自分の心を見つめなさい!」という親心からのおさとしでした。

ビジネスの世界は競争社会ですから、私のような凡人は、ついつい好き嫌いや憎愛の感情に振り回されがちです。他人の成功をねたみ、失敗を喜ぶような卑しい心持になることもあります。しかし、そのような憎愛の感情は私たちの心を疲れさせ、暗くさせます。暗くて疲れた心では良い仕事はできませんし、自分で自分を不幸に導くことになります。

「悟り」の世界に至ることはできないまでも、他者を裁く憎愛の心は天(サムシンググレート)に預けるように工夫しましょう。長い目で見れば、天(サムシンググレート)は公平で、まじめに努力するものには良い運命を与えてくれます。私たちも憎愛にとらわれずに少しでも心を明るく保ちたいものです。

ポイント

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

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