笠倉健司の「ビジネスに役立つ禅の話」………………達磨(だるま)の話

2014-02-14

■達磨と「だるま」さん(1/2)
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お釈迦(しゃか)さまから1千年ほどたって、西暦6世紀ころから、中国で禅宗が盛んになります。中国に禅の教えを伝えた最初の人として禅門で大切にされているのが、達磨大師(だるま-だいし)です。

達磨大師(だるま-だいし)は、皆さんが良くご存じの縁起物の赤い張子の置物「だるま」さんのモデルとなった方です。達磨大師が、中国の少林寺において壁に向かって9年間も坐禅を続けたため、手足が腐ったという伝説により、「だるま」の置物は、手足のない形で作られています。

もちろん、達磨大師(だるま-だいし)が坐禅のしすぎで手足が腐ったというのは単なる伝説で、事実ではないでしょう。それどころか、歴史上の達磨大師のことは記録が少なすぎてよく分からず、「達磨大師の存在自体が、後世の人が創作した伝説ではないか」という仏教学者もいるくらいです。

伝説や神話は、「歴史的事実」ではなくても、私たちに何らかの「真実」を伝える話です。だからこそ、古い時代から現代まで長く伝えられています。
仏典(お経)にしても、キリスト教の聖書にしても、「事実」とは信じられないような奇跡の話がたくさんあります。しかし、それが歴史的事実ではないからといって価値がないわけではありません。むしろ、そこからどのような「真実」を読み取るのか、私たちが問われているといえるでしょう。

さて、西暦6世紀前半に、達磨大師(だるま-だいし)は、インドから中国に来られたとされますが、そのとき、中国の南半分を治めていたのは、梁(りょう)という国の初代皇帝である武帝(ぶてい)でした。

梁の武帝は、「皇帝大菩薩(こうてい-だいぼさつ)」と呼ばれるほど、熱心な仏教信者でした。国家のお金で多数のお寺を作り、たくさんの僧侶を保護し自らもお坊さんが着るお袈裟(けさ)をつけて、臣下のものたちに仏教の講義をするほどでした。大変まじめで、信心のあつい皇帝で、半世紀ほどの在位中は、国も大いに繁栄しました。まずは、名君といってもよい優れた皇帝といえるでしょう。

禅宗という新しい仏教の教えを伝えるために、達磨大師(だるま-だいし)という大変えらいお坊さんが、わざわざインドから中国にやってきたと聞いた梁の武帝は、さっそく達磨大師を宮廷に招いて、有名な問答をしました。
その話が、歴史上最初の禅問答として、『碧巌録(へきがんろく)』などの本に書かれ、今日まで大切な禅話として伝わっています。

さて、梁の武帝は、達磨大師(だるま-だいし)に何を聞き、それに対して、達磨大師は何と答えたのでしょうか?

■からりとして何もない(2/2)
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まず、梁(りょう)の武帝(ぶてい)は、達磨大師(だるま-だいし)に対して、「私はたくさんのお寺をつくり、熱心に仏教を保護してきたが、どのような功徳(くどく)があるのか?」と質問します。信心深い皇帝としては、インドから来た高僧に、自分をほめてもらいたかったのでしょう。

世間的な常識でいえば、「大変ご立派な良いことをなされています。仏のご加護(かご)で、お国はますます栄えるでしょう」というようなことを答えるところです。半分、お世辞が入っていたとしても、初対面のご挨拶と考えれば、それはそれで正しい対応だと思います。

しかし、達磨大師(だるま-だいし)は、まったく異なることを言いました。
なんと「無功徳(むくどく)」といったのです。「功徳なんてない」と正面から武帝のことを否定した言葉です。さぞかし武帝は面食らったことでしょう。

達磨大師(だるま-だいし)の言葉は、「功徳(くどく)を欲しがる気持ちは煩悩(ぼんのう)であり、心のけがれである。そのような気持ちをなくせば、いっそうの功徳があるものだ」という意味だと思います。しかし、それを丁寧に説明せずに、ズバッと本質だけを簡潔に答えたのが、いかにも禅的です。

達磨大師(だるま-だいし)の答えが、常識とかけ離れていたので、梁(りょう)の武帝(ぶてい)は、かなり不愉快に感じたことでしょう。乱暴な皇帝ならば、怒って、達磨大師の首をはねたかもしれません。
しかし、さすがに、武帝は、人間のできた熱心な仏教徒だけに、怒りをおさえて次の質問をしました。「では、仏教の一番の核心となるありがたい教えは、どのようなものじゃ?」という、するどい問いです。

それに対する達磨大師(だるま-だいし)のお答は、「廓然無聖(かくねん-むしょう)」でした。現代語におきかえれば、「からりと晴れた大空のように(廓然)、ありがたいものなど何もないわい(無聖)」というものです。
これには武帝も驚いたようで、「仏教には、功徳(くどく)もなければ、ありがたい教えもないとは、いったい、この禅僧は何を伝えに中国にきたのだ?」といぶかしんだようです。

そこで、武帝は、第三問として「ありがたいものが何もないならば、禅の教えを伝えるお前は、いったい何者じゃ?」と質問しました。それに対して、達磨大師(だるま-だいし)は、「不識(ふしき)」と答えました。「そんなこと知らんわい!」という意味です。
なんとも取りつく島のないような、突っ放した答えに、さすがの武帝も、あ然として、一連の問答は終わりました。

「無功徳(むくどく)」「廓然無聖(かくねんむしょう)」「不識(ふしき)」という達磨大師(だるま-だいし)のお答は、いかにも禅問答らしいものです。
ようするに、功徳を期待したり、ありがたそうな教えや偉そうな人にすがっているうちは、仏教の本当のありがたみはわからないと、達磨大師(だるま-だいし)は言いたいのでしょう。

なぜならば、誰もが、本来、素晴らしい生命の輝き(仏心)を生まれながらにもっており、それを自分で磨いていくことによって、おのずから功徳が生まれるというのが、仏教の教えだからです。
それを丁寧に説明せずに、あえて謎のような短い言葉を投げかけて、自分で考えさせるように仕向けるところに、禅の面白さがあります。

「功徳(くどく)」を利益と置きかえ、「ありがたい教え」をスキルやノウハウと置きかえ、「偉そうな人」を外部の経営学者やコンサルタントなどと置きかえれば、現代のビジネスにも相通じるものがあるのではないでしょうか。

自分の「功徳」(利益)にこだわりすぎると、大事なお客様のことがおろそかになることがあります。「功徳」(利益)にこだわりすぎずに、まずはお客様を大事にすることで、おのずと売上や利益が上がっていくものです。

スキルやノウハウや外部のコンサルタントとの付き合いも、それに頼り切ると失敗することがあります。それぞれの置かれたビジネスの状況が異なるので、基本的なスキルやノウハウを学んだ上で、自社の状況に合わせて応用していく必要があるからです。コンサルタントからのアドバイスについても、同じような面があるでしょう。

あくまでも主体的に、スキルやノウハウを学び、コンサルタントと付き合っていくことが大事です。そうすれば、スキルもノウハウも、コンサルタントのアドバイスも、すべてが自分のものとして生かされて、ビジネスも良い方向に進んでいくことでしょう。

[ここがポイント]

1.「功徳(くどく)」にとらわれ過ぎないこと。
2.誰もが、自分の中に、素晴らしい可能性を持っている。
3.主体的に、学ぶことで可能性が花開く。

【笠倉健司・記】
(感想メール: kasakura@utok.jp )

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