第二十則「大力量人」(解説その2)

2014-06-30

無門の言いたいことは、正しく禅の教えを受け継いでいる正脈(せいみゃく)のお師家(しけ)様の指導を受けなさいということでしょう。

禅の精神を受け継いだ正しい法脈(ほうみゃく)のお師家(しけ)様は、どの時代にも、それなりにおられます。無門の時代には、中国各地におられました。(現代中国には、あまりいないといわれています)

禅仏教が最も純粋な形で伝わっている日本においては、現代においても、正脈(せいみゃく)のお師家(しけ)様が、禅寺や禅道場におられます。そして、現在も、熱心に道を求める人たちを指導しておられます。

私たちも、やる気があれば、また、ご縁があれば、その老師方の誰かから指導を受けることができます。

無門の言葉は、「一人で分かったと思いこまずに、正しい指導者から実地の指導を受けなさい」という意味で理解すべきと思われます。
自己満足に陥ると、進歩しないばかりか、間違った道に入る恐れもあるからです。

もっとも、そのような本格的な指導者との出会いがない方もおられるでしょうし、また、そもそも、本格的な修行をするほど、禅に対して「やる気」がおきないという方もおられると思います。

禅の修行をするかどうかは、各人のご縁だと思いますので、誰もが修行しなければならないというわけではありません。

ただ、自己流の理解で自己満足すると、かえって間違うことがあると、謙虚な気持ちを忘れないことが大事ではないかと思います。

さて、無門(むもん)は読者に向かって、「自分のような正しい指導者から厳しい指導を受けろ!」とある意味、無茶なことを書いていますが、それについて自分で批評の言葉を置いています。

「それは何故(なぜ)か。 さあどうだ。
純金かどうかは、火を通せばいっぺんだ。」

「なぜ、老師の指導を受ける必要があるかと言えば、悟りが純金のような本物か、あるいは、金メッキのようなニセ物かは、火のような厳しい指導を受ければ、いっぺんで分かるからだ!」という意味です。
純金のような本物とは、「深い悟り体験」、金メッキのようなニセモノとは、「浅い悟り体験」と理解しておけばよいと思います。

禅のような瞑想を習慣的に続けていきますと、誰でも、ある種の「悟り」体験をすることがあります。そのこと自体は悪いことではないのですが、つい、「自分はすごい悟りを開いた」という自己満足に陥ることがあります。

しかし、「悟り」の世界は深く広いので、実際に修行者の「悟り」体験の深さは様々です。
浅い「悟り」に自己満足せずに、さらに「悟り」を深めるためには、修行者の自己満足を捨てさせることが必要な場合もあります。

そのために、老師方は、弟子たちをあえて否定して、厳しく叱ったりしますが、その趣旨を短い言葉で的確に語っているのが、上記の無門(むもん)の言葉でありましょう。

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