精一杯の花を咲かせた堂々たる人生

2014-01-01

偉大な沢木老師がお亡くなりになったとき、
「はたして、自分で後任がつとまるのか?」、
「沢木老師の教えを後世に伝えていくことができるのか?」と、
良心的でまじめな内山老師は、真剣に自分に問いかけたのでしょう。

沢木老師が遷化(せんげ)されたとき、内山老師は、
「老師について坐禅しつつ二十五年経ったけれど、
おれはちょっとはなんとかなったかな?とふりかえってみた」そうです。
少しは、沢木老師の境涯に近づけたのかどうか?と自分を自分で点検されたのでした。

ところが、25年の修行の結果、「本当に、ちっともなんともなっていなかった」ことに気が付かれます。
少しも沢木老師に近づいていなかった、自分は自分でしかなかった、ということを、内山老師は、あらためて認識します。

しかし、内山老師は、同時に別の気づきに導かれます。
そのとき、思わず、
「スミレはスミレの花が咲く、バラはバラの花が咲く」
という言葉を口にされたそうです。
この言葉について、内山老師ご自身が明快に解説されています。

沢木老師みたいに、大輪のバラの花を咲かせる人もある。
私みたいに、スミレのような可憐な花を咲かせる人もある。

しかしどっちがいいか、悪いか―そんなことではない。
他とのカネアイなし。
私は、私なりに、精一杯の花を咲かせればいいのだ。

沢木老師は、誰もが目を見張り、引き付けられる大輪のバラの花のような偉大な存在でした。
それに対して、内山老師は、ご自身の表現をかりれば、野に咲く可憐なスミレの花でした。

バラは、花屋さんで高い値段で売られています。スミレは、雑草であり、花屋に並ぶことも、花束になることもないでしょう。
何事も、お金で評価したがる世間では、バラには高い価値があり、スミレには価値がないと考えがちです。

しかし、禅の世界観から言えば、どちらが良いとも悪いともいえないのです。それぞれが、精一杯の花を咲かせることが大事であり、精一杯の花を咲かせているという点において、花に優劣はないのです。

内山老師は、沢木老師と自分を比べることなく、
「私は、私なりに、精一杯の花を咲かせればいいのだ。」
ということを明確に認識されます。
沢木老師が、一所懸命に伝えようとした
「坐禅してもなんにもならぬ」
と教えを内山老師が見事に受け取られた瞬間でした。

もちろん、沢木老師がお亡くなりになる前から、すでに内山老師は、そのような境涯にあられたと思いますが、あらためて自己点検してみて、自らうけがう(肯定する)ことができたということだと思います。

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