精一杯の花を咲かせた堂々たる人生

2014-01-01

沢木老師の「坐禅してもなんにもならぬ」と教えについて、
内山老師は、さらに丁寧に解説されています。

<内山興正(こうしょう)老師の解説-3>

結論としていえば、私は思っても思わなくても、
信じても信じなくても、受け入れても拒絶しても、
絶対事実として、天地一杯の生命を生きている。

修行というのは、この天地一杯の生命を、
いかに、今ここで充実して発現するかという、その一事です。

私たちは、自分の思いや理解や信仰にかかわらず、「絶対事実として、天地一杯の生命を生きている」というのが、沢木老師の教えの核心です。

坐禅の修行によって、心の垢を洗い流して、自己を瞑想の眼によって見つめたとき、私たちの生命は、「天地一杯」「宇宙一杯」という大きさをもっていることに気が付きます。

なぜ、私たちの小さな生命が、「宇宙一杯」という極限の大きさを持つといえるのでしょうか? 

理論的には、仏教の基本的な教えである「縁起」(えんぎ)の理法、つまり、
「一切すべての存在は、独立した実体はなにも無く、
他のものとの相互依存の関係の中に現れている」
という仏教的な世界観によって説明できます。

私たちは、一人で生きているわけではなく、多くの人とのかかわりの中で生きています。また、空気や水など自然の恵みがなければ、生きることはできません。
そもそも、地球がなければ人類はなく、私たちも存在しません。地球は、宇宙の137億年の進化の歴史の中で生まれてきたものであり、つきつめれば、宇宙は、私たちの生命の源です。
私たちは、宇宙全体に支えられて、生きているわけです。
同時に、私たちの存在は、いかに小さいものに見えても、世界に何らかの影響を与えます。相互依存関係の中で、世界全体とつながり、ひいては、宇宙全体とつながっていると捉えることができます。

しかし、それは、理屈の話であり、禅の教えではありません。
禅の修行の目指すところは、宇宙全体との相互依存の関係の中で、「生かされて生きている自分」の存在を直感的に把握することです。

それがわかれば、一人ひとりが「天地一杯の生命を生きている」ということが、絶対的な事実として、私たちにも理解できます。

「生かされて生きている自己」すなわち「天地一杯の生命」ということが分かっただけでも、心は広やかになり、かなりの安心を得られます。
しかし、それだけで、すべてが解決というわけではありません。
そこを出発点にして、「この天地一杯の生命を、いかに、今ここで、充実して発現するか」という修行の道が始まると、内山老師は教えてくださいます。

「今、ここで、自己をいかに充実させるか」という修行は、ある意味、一生の課題でしょう。
禅の修行というだけではなく、仕事においても、生活においても、読書においても、常に、「今、ここで、自己をいかに充実させるか」という課題を私たちは問われているのだと思います。
ある意味、人間にとって最も大事で根本的な問題について、私たちに教えてくださっているのが、沢木老師であり、内山老師なのだと思います。

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