精一杯の花を咲かせた堂々たる人生

2014-01-01

そのようにして、「今、ここ、自己」が充実するとどのようになるのか?といえば、私たち自身が持っている純粋な生命力が花開くことになります。

<内山興正(こうしょう)老師の解説-5>

要するに天地一杯だから、汚されようはないのだ。
そういう私自身の純粋な生命力で、
いつも今ここに生きてゆく。
天地一杯の生き方をする。

このなんにもならないことをただする。

これが祇管(しかん)ということです。

道元禅師は祇管ということをよくいわれるが、
「ただ」「ひたすら」ということ。

これは決して夢中、熱中ということではありません。

夢中、熱中にはアテがある。
天地一杯として「祇管」ということにアテはない。

まったく純粋な自己の生命力として「ただする」ことです。

内山老師は「私自身の純粋な生命力で、いつも今ここに生きてゆく」ことが、道元禅師の言われる「祇管打坐」(しかん-たざ)であるといわれます。

道元禅師は、「祇管打坐」(しかん-たざ)という、悟りを求めない坐禅を重視されました。
ここでいう「祇管」(しかん:只管とも書く)とは、「ひたすらに」「余念を交えない」「ただ~のままに」などの意味です。「打坐」(たざ)とは坐ること。あわせて、「ひたすらに坐禅する」という意味になります。

臨済系の公案禅は、公案という問題に取り組むことで、小さな悟り体験を積み重ね、階段を上るように、一歩一歩、ブッダの境涯に近づいて行こうとします。

それに対して、道元禅師の開宗された曹洞宗の禅は、悟りを求めずに、ただ坐禅することを大事にします。

何のアテもなく、目的もなく、ただひたすらに坐禅することが、「祇管打坐」(しかん-たざ)ですが、簡単なように見えて、じつは、大変奥の深い、高い境涯を表していると思います。

臨済系の禅でいえば、悟り終わって、悟りの臭みも抜いて、最後にたどり着く高い境涯が、「祇管打坐」(しかん-たざ)の境涯といえるでしょう。
私たち凡夫は、煩悩(ぼんのう)が強くて、なかなか、そのような純粋な混じりけのない坐禅をすることができません。

そこで、公案という問題を与えることによって、当面の修行の目標を持たせ、公案に心を集中することによって、修行を深めていこうというのが臨済系の禅ですが、公案禅であれ、道元禅師の禅であれ、最後にたどり着くところは、同じところではないでしょうか。

「祇管打坐」(しかん-たざ)が当たり前にできる人は、日常生活においても、「まったく純粋な自己の生命力として「ただする」こと」ができる境涯におられるのだと思います。
このような境涯こそ、ブッダの深くて大きな「悟り」の世界であるのでしょう。

私のような凡夫には、うかがい知れないレベルですが、沢木老師や内山老師は、一生を通じて、その境涯を追求し、相当程度に、自分の人生において実現されたのであろうと思います。本当にすごいことです。

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