「妙好人(みょうこうにん)」-才市(さいち)-その5

2013-05-03

『日本的霊性』(角川文庫版)から浅原才一(あさはら-さいち)の詩とそれに対する鈴木大拙(だいせつ)の説明を引用してみましょう。

わしのこころは、あなたのこころ、
あなたのこころが、わたしのこころ。
わしになるのが、あなたのこころ。

お慈悲(じひ)も、光明(こうみょう)も、みな一つ。
才市(さいち)も、あみだも、みなひとつ。
なむあみだぶつ。

皆一つのところが、「なむあみだぶつ」である。
すなわち「なむあみだぶつ」であり、また光明であり、
また慈悲であり、また才市である。
この自覚を霊性的直覚という。
そしてこの直覚の形態に日本的なるものを見たいのである。
(『日本的霊性』角川文庫版P.264~265)

浅原才市(さいち)の詩にいう「あなた」とは阿弥陀仏(あみだ-ぶつ)のことです。

「わしのこころは、あなたのこころ」、つまり、凡夫である才市の心は、阿弥陀仏の心と同じであるといいます。
しかも、「わしになるのが、あなたのこころ」ということは、阿弥陀様の方から才市の心になってくださるというのです。

ついには、「才市(さいち)も、あみだも、みなひとつ」ということになり、才市にとては、それが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)なのです。これを読むと白隠禅師の『坐禅和讃』を思い出します。

日本の臨済禅中興の祖と言われる白隠禅師(はくいん-ぜんじ、江戸時代中期)は、『坐禅和讃(ざぜんわさん)』の冒頭を「衆生(しゅじょう)本来仏なり」と歌いだします。

人間は誰でも、本来は、仏様と同じ存在、仏様と同じ素晴らしい心の可能性をもった存在だということを端的に述べています。徹底的な性善説です。「衆生(しゅじょう)本来仏なり」とは、禅仏教の、大乗仏教の大前提と言って良いでしょう。

『坐禅和讃』の中段は、「直(じき)に自性(じしょう)を証すれば」が眼目です。禅の修行によって、自分が本来仏であることを悟ることができるという趣旨です。

『坐禅和讃』の最後の締めくくりは、「当処(とうしょ)すなわち蓮華国(れんげこく) この身すなわち仏なり」です。

修行を重ねて深い悟りを得れば、私たちの日常そのものが蓮華国(れんげこく)すなわち浄土(じょうど)であり、幸せな毎日となり、この自分自身こそが「仏」そのものであることを深く自覚できるという意味です。

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