「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」その2
「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という禅語についても、岡本太郎は、『自分の中に毒を持て』(青春文庫)の中に、素晴らしい注釈を残してくれています。
もちろん、岡本太郎本人は、そのつもりで書いているわけではなく、文章を読んだ私が勝手にそのように受け取っているだけですが、色々なことに悩んでいる方には、きっと励ましになると思いますので、以下に紹介いたしましょう。
<岡本太郎の言葉>
「人はいつでも迷うものだ。あれか、これか……。こうやったら、駄目になっちゃうんじゃないか。
俗に人生の十字路というが、それは正確ではない。人間は本当は、いつでも二つの道の分岐点に立たされているのだ。この道をとるべきか、あの方か。どちらかを選ばなければならない。迷う。
一方はいわばすでに慣れた、見通しのついた道だ。安全だ。
一方は何か危険を感じる。もしその方に行けば、自分はいったいどうなってしまうか。不安なのだ。しかし惹かれる。
本当はそちらの方が情熱を覚える本当の道なのだが、迷う。まことに悲劇の岐路。
こんな風にいうと、大げさに思われるかもしれないが、人間本来、自分では気づかずに、毎日ささやかではあってもこの分かれ道のポイントに立たされているはずなんだ。
なんでもない一日のうちに、あれかこれかの決定的瞬間は絶え間なく待ちかまえている。朝、目をさましてから、夜寝るまで。瞬間瞬間に。」
私たちの毎日は、百尺竿燈(ひゃくしゃくかんとう)からさらに一歩を進めようかどうしようか、常に迷っている姿だと岡本太郎はいいます。
大なり小なり、私たちは、色々な問題に直面して、常に迷いを感じながら生きていると言えるでしょう。時には、大きな決断が必要な場面もあります。その時は、激しく迷い、悩むことになります。
<岡本太郎の言葉>
「ほとんど誰でも、自分で意識するしないにかかわらず、常に迷い、選択を迫られている。
そしてみんな、必ずといってよいほど、安全な、間違いない道をとってしまう。それは保身の道だから。その方がモラルだと思っている。
ぼくは、ほんとうにうんざりする。
人々は運命に対して惰性的であることに安心している。
つまり世間知に従って、この世の中に抵抗なく生きながらえていくことが、あたかも美徳であるように思われているのだ。」
大きな決断に迫られたとき、多くの人は、安全な道を選んでしまうと岡本太郎はいいます。
私のような気の小さな人間は、このような文章を読むと図星を刺されたような気がして、ドキッとします。