「芸術はバクハツだ!」ー2

2013-02-20

禅の言葉に、「過去心不可得(かこしんふかとく)、現在心不可得(げんざいしんふかとく)、「未来心不可得(みらいしんふかとく)」(金剛経)というものがあります。

過去は過ぎ去ってしまったから、つかまえようがない、未来はまだ来ないのだから、つかまえようがない、ここまでは、わかりやすいでしょう。

「人間には、過去も未来もつかまえられない、だから現在しかない」というのが普通の説法であり、それはそれで正しい教えです。

しかし、『金剛経』では、「現在心不可得(げんざいしんふかとく)」といって、現在もまたつかまえられない、といいます。

 その意味は、「現在」というものを厳密に考えると、「今」と思った瞬間が直ぐに過ぎ去るので、「現在」はどんどん短い瞬間になり、ついには、仏教用語で「隣虚(りんきょ)」(虚とはゼロのこと、ゼロの隣という意味)という無限に短い極点に至ります。

「隣虚(りんきょ)」という瞬間は、人間には捉えることはできません。「現在心不可得」ということになります。

これは理屈による説明ですが、言わんとするところは、人間は、常に変化流動する存在であり、時間は常に流れていて、一瞬もとどまることがないということです。

 それでも、本当に充実した時間を過ごしていると、その時間が瞬間であると同時に、永遠であるかのように長く感じることもあります。

例えば、満開の桜や一面の紅葉など素晴らしく美しい自然の姿に感動しているとき、時間が止まったような気がすることがあります。
巨人の往年の大打者であり、王や長島が現役時代に巨人の大監督であった川上哲治は、ヒットを打つとき、ボールが止まって見えたそうです。仕事に夢中になって打ち込んでいると一瞬一瞬が止まっているように感じるとともに、いつの間にか時間が流れ、あっという間に時間が過ぎる時があります。
あるいは、若い人向けにもっと卑近な例を挙げれば、恋人同士が深い愛情を込めて夢中になってキスしている時なども、その人にとっては時間が止まっているように感じるのではないでしょうか。

 人間が深く感動しているとき、あるいは、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、本来は不可得であるはずの現在が、永遠の現在となってその人のモノになる時があります。

 そのようなとき、人はモノそのものになりきって、対象と一体となって、自己の存在も忘れていることでしょう。無償、無目的になって、ただひたすら何かに夢中になっている状態です。

 その瞬間を岡本太郎は、「生命のバクハツ」と捉えたのではないでしょうか。

 私たちの人生を充実しているかどうかは、「生命のバクハツ」といえる瞬間をいかに持てるかによること、つまり「成果はご褒美である」と割り切って、結果にこだわらずに、今という瞬間を充実させることであると、岡本太郎は、私たちに語りかけてくれていると思います。

 とはいえ、複雑な現代社会において、慌ただしい日常生活の中で、そのような「永遠の現在」というべき充実した時間を常に持つことは、なかなかに難しいことです。

 「現在」を深く味わうにも、感性を磨く必要があるのかもしれません。そのための一つの方法として、「禅」や「瞑想」を捉えることもできます。

 「禅」によって、「瞑想」の一時を持つことによって、ストレスや不安によって疲れた心を癒し、現在を味わう心の余裕を作り出すことができるようになります。
 
 人間形成の道である「禅」の教えにとっては、そのような癒しの効果は副産物かもしれませんが、無視できない重要な価値があると私は思います。

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