今東光の毒舌人生相談-その6「神や運命について」(4)

2013-05-03

禅では、「衆生(しゅじょう)本来、仏(ほとけ)なり」というのが大前提であり、人間の外側いる神仏の存在よりも、心の中に「仏」を発見することを重視します。

しかし、自分の中にある「仏」は、「衆生」と呼ばれるあらゆる生きとし生けるものにも、存在します。いや、「衆生は仏そのものである」というのが禅の教えです。

禅体験によって、「衆生(しゅじょう)本来、仏(ほとけ)なり」ということが多少なりとも、実感できるようになると、神や仏などと呼ばれる「サムシンググレート」の存在が親しいものに感じられることがあります。
禅とは、人智を超えた「サムシンググレート」との交流を持つことではないかと私は思います。

もっとも、「サムシンググレート」との交流ということから言えば、仏教の他の宗派でも、神道でも、あるいは、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など他の宗教でも、本質的には、同じことを目指していると思います。

ただ、宗教や宗派によって「サムシンググレート」を見る角度が異なり、結果的に交流の方法が異なるということであると思います。

禅宗では、坐禅によって交流し、浄土教では「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏(ねんぶつ)により、キリスト教においては、神への「祈り」によって、「サムシンググレート」と交流するということでしょう。
幸いに現代日本では、信仰の自由が憲法によって保証されている社会ですから、宗教的な関心がある方は、それぞれの性格や関心の方向性に応じて、また、ご縁に従って、自分にあった宗教に学ぶとよいでしょう。

なお、本格的に入信するかどうか、つまり、特定宗教の信者になるかどうかについては、その宗教のことをよく理解してから、慎重に考えたほうがよいと思います。いったん入信すると、一つの宗教を深く信じるかわりに、他の宗教について広く学ぶことが難しくなります。

必ずしも、信者にならなくても、読書や各種の初心者向けの勉強会などにより知識を得ることはできます。
あるいは、坐禅会やキリスト教会の祈りの会(ミサなど)に出席して、より深く宗教の知恵を学ぶことができます。

本格的に入信するかどうかは、その宗教について基本的な知識を得てから、慎重に考えることをお勧めします。真剣に考えれば、自ずと答えが見つかることでしょう。
入信を迷うならば、迷わなくなるまで待つほうが良いと思います。

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