仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を教えるもの

2013-11-29

ひるがえって、私たちにとって、「帰処」(きしょ)は、どこなのでしょうか? 

「帰処」(きしょ)、すなわち心の帰り着く先は、人によって様々でしょう。

必ずしも、禅仏教でなくても良いと思います。
人ぞれぞれのご縁によって、親鸞や日蓮の教えに帰りつく人もいれば、キリスト教に帰り着く人もいるでしょう。

宗教ではなく、安岡正篤先生の教えであったり、森信三先生の教えであったり、松下幸之助氏や稲盛和夫氏の教えを信奉される方もおられるでしょう。
特定の教えに安住できず、様々な思想・哲学・宗教を学んで、それらを良い意味で取り込んで、自らの人生経験に照らし合わせて、自分の「帰処(きしょ)」を自分で構築していく方もおられるかと思います。
自らの「帰処(きしょ)」を自分で構築できる方は、本当に優れた方であると思います。

また、一人の人でも、年齢や環境や人生経験によって、「帰処(きしょ)」が変化することも普通にあることでしょう。
20代で信奉していた教えと50代で信じる教えが全く同じであったならば、かえって不思議というものです。

『修身教授録』で有名な森信三先生も、昭和20年の日本の敗戦時には、48歳でしたが、甚大な精神的衝撃を受けられて、自らの哲学を鍛え直すために、それまであまり関心のなかったマルクス主義やキリスト教などを真剣に学ばれたそうです。

森信三先生のような偉大な思想家にして、50歳近くになって、自らの思想を再構築せんとして、勉強しなおされたというのだから、「帰処(きしょ)」を確認することはそれだけ難しいことでしょう。
それにしても、50歳近くになって、苦しみながら哲学者として自分を鍛え直した森信三先生もすごい方だと思います。

さて、お釈迦様にしても、内山老師にしても、若い頃から、人生の意味に迷い続け、普通の生き方に飽き足らずに、出家の道を選ばれました。

私たち凡夫は、そのような生き方は、なかなかできず、一生、迷い続けるのかもしれません。
それだからこそ、内山老師の純粋で誠実な生き方から生まれる文章は、迷い多き私たちの心に灯火となってくださるように思います。

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