天地一杯の生命になる

2013-12-26

さて、次の一節、

「誰でもみな「一切ぶんの一切」という生命を生きている」

「それと同時に「一切分の一」の私を生きている」

という部分も、哲学的で難しい表現です。

ここでいう「一切」とは、大宇宙のことであり、
「一」とは一人の人間のことです。
つまり、人間は、誰もが「宇宙の大生命」とつながって生きているということを表しています。

今、「宇宙の大生命」といいましたが、これは伝統的に使われている比喩的な表現で、本来は、言葉では表現しきれないものです。

それだけに古来、様々な名前で呼ばれてきました。

禅仏教では、「宇宙の大生命」のことを「仏性」(ぶっしょう)と表現します。

世界のすべての存在は、「仏性」を持ち、「仏性」によって生かされているというのが、禅の根本命題です。

また、「宇宙の大生命」のことを浄土宗では「阿弥陀仏(あみだぶつ)」といい、キリスト教においては「神(ゴッド)」といいます。

最近では、特定の宗教に偏った名前を避けるため「サムシング・グレート」(人知を超えた偉大なる存在。神様や仏様の総称)と表現されたりします。

内山老師は、人間は「サムシング・グレート」によって生かされて生きている存在であるとをおっしゃっりたいのでしょう。

つまり、私たちは、神様、仏様に見えないところで支えていただいており、神様や仏様を通じて世界と一体になって生きている存在であるということです。

では、人間は、どこで神様や仏様とつながっているのでしょうか?
一般的には「心の深い部分」ということになります。現代風にいえば、「深層心理」「最も深い無意識」によってということです。

ここで「心」が「脳」の機能であると考えると、全ては「脳」の働きという「唯脳論」(ゆいのうろん)になってしまいます。
しかし、禅の考え方は、「唯脳論」ではありません。

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