無心の境地を求める

2014-05-08

■自分を忘れる工夫(1/3)

私たちは、悩める慧可(えか)のように、様々な不安や悩みに心をとらえられ、とても苦しい思いをすることがあります。

人生の中には、晴れの日もあれば、雨の日もあります。真面目な人ほど、仕事のため、経済的な問題のため、家族や愛する人のために、とても悩み、苦しい思いをするときが、きっとあることでしょう。

そのように苦しむことは、とても尊いことで、その苦しみを乗り越えることで、人間は大きく成長していくことができます。

しかし、さらに高い見地からみれば、いいかえれば、サムシンググレート(神や仏や天など)の見地からみれば、人間は、常に自分の運命を生きているのであり、苦しみも悲しみも、その人の一回限りの大事な人生の欠かせない一コマといえるでしょう。

苦労や努力の結果がどうであれ、運命を素直に受けとめて、現在を精一杯に生きることに人間の本当の価値があり、その積み重ねで、人として成長し、人生が良い方向に開けてくるのだと思います。

達磨大師(だるま-だいし)が、慧可(えか)に伝えたかったことは、「無心(むしん)」ということにあると思います。

無心といっても、何も考えないという意味ではありません。ただ真剣に目の前のやるべきことに打ち込んでいく心のあり方を言っています。

「不安だ、不安だ」と不安な心に捉われていると、ますます不安になるのが人間です。

それよりも、不安や悩みのただ中で苦しみながらも、目の前の仕事や日常生活に心をむけて、それに打ちこむことによって、不安や悩みが自然に解決できるということをこの禅問答は教えてくれているように思います。

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