無門関第四則「胡子無髭(こす-むしゅ)」<その2>

2014-07-21

この公案のいう「鬚(ヒゲ)のない達磨(だるま)」とは、誰もが本来備えている仏さまとしての本質、本来の心の性能のことを指しているということを確認いたしました。つまり、仏性(ぶっしょう)のことを指しているわけです。

或庵禅師(わくあん-ぜんじ)は、「それをしっかりと見てこい」という意味で、「なぜヒゲがないのか?」と問うています。

「仏性(ぶっしょう)」とは、「宇宙的無意識」(鈴木大拙)と表現されることがありますが、二元的な対立を超えた絶対的なものです。
それを悟ることができれば、「ヒゲの有る無し」は、問題ではなくなります。

禅の公案はいずれもそういう性格を持っていると思いますが、答えよりも、問いそのものに深い意味があります。
一見、理解不能な非論理的な「問い」を通して、日常の二元対立の中で行われるロジカルシンキングを止めて、瞑想の智慧を活性化しようという性格のものです。
そのため、公案は、あくまでも悟りを得るための道具であり、「問い」と真正面から取り組んで、自己参究を深めることに存在意義があるといえます。

歴史上の達磨大師(だるま-だいし)は、鬚面(ひげづら)に描かれるわけですが、公案でいう「達磨(だるま)」=「仏性(ぶっしょう)」は、鬚(ひげ)の有無を超えた絶対的なものであると理解しておきましょう。

さて、或庵禅師(わくあん-ぜんじ)の公案に対して、無門和尚(むもん-おしょう)が、「評唱(ひょうしょう)」という禅的な批評をつけています。以下に評唱の内容を説明していきます。

<評唱の前半:書き下し文>
無門(むもん)曰(いわ)く、
参(さん)は須(すべか)らく実参なるべし、
悟(ご)は須らく実悟なるべし。

<評唱の前半:現代語訳>
無門は言う、
「そもそも禅に参じようと志すほどの者ならば、
参禅は、真実のものでなくてはならないのであり、
かつまた、悟りについても、それはあくまで、
真正(しんしょう)の悟りでなければならない。」

無門和尚(むもんおしょう)は、禅の修行は、「実参」すなわち、真実の参究でなければならないといい、また、「悟り」も「実悟」つまり、「真実の悟り」でなければならないといいます。

まことに、もっともな言葉ですが、今度は、「真実の参究」、「真実の悟り」とは、いかなるものか?という疑問が出てきます。

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