無門関第四則「胡子無髭(こす-むしゅ)」

2014-07-20

引き続いて、『無門関(むもんかん)』第四則の現代語訳です。
こちらは、岩波文庫の『無門関』(西村恵信・訳注)から引用しています。

<本則(ほんそく)>:公案の提示

或庵(わくあん)が言われた、
「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、
鬚(ひげ)がないのか?」

<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>

無門は言う、
「そもそも禅に参じようと志すほどの者ならば、
参禅は真実のものでなくてはならないのであり、
かつまた悟りについても、
それはあくまで真正(しんしょう)の悟りでなければならない。

ここにいう達磨(だるま)の話にしても、
一度は彼にぴたり眼と眼の合うような体面をすることが
なくてはならないわけだが、
そう言ってしまうと、
これもまた自己と達磨(だるま)の二人ができてしまって、
始末の悪いものだ」。

<頌(じゅ)>・・無門和尚による禅的な漢詩

頌(うた)って言う、

分からぬ奴(やつ)に、
夢説くなかれ。
達磨(だるま)に 鬚(ひげ)ない話など、
睲(さ)めた頭も 睡気(ねむけ)さす。

(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)

本則は、「達磨(だるま)には、なぜ髭(ひげ)がないのか?」という至ってシンプルなものです。
この問いに真剣に取り組めば、悟りの世界に至れるということで、大事にされて来た公案です。江戸時代に日本の臨済宗を中興した白隠禅師も、この公案を大いに評価していたと伝わっています。

それに対して、「評唱(ひょうしょう)」は、『無門関』の著者である無門和尚(むもん-おしょう)が禅的な批評をつけたもので、公案の眼目を示すものでもあります。

また、「頌(じゅ)」は、無門和尚が、この公案の精神を漢詩の形で表したものです。

禅の修行を極めた方々、特に「師家(しけ)」といわれる禅指導者としての最高免許をお持ちの方々が読めば、原漢文だけでも十分に意味もわかり、味わいも分かるのでしょう。
しかし、禅修行の経験のない方は、現代語訳まで読んでも、何を言いたいのか、さっぱりわからないと思われます。
かくいう私も「師家」ではなく、一在家禅者に過ぎませんから、そう深く分かっているとは言えないのですが、たくさんのお師家(しけ)様が、提唱録を書かれていますので、それらを参考に、この公案の禅的な味わいについて解説していきたいと思います。

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