無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-12

さて、本則(公案)の解説はこのくらいにして、無門和尚(むもん-おしょう)の評唱(ひょうしょう)の部分を解説いたしましょう。
評唱というのは、禅的な批評という意味で、公案に対する無門和尚(むもん-おしょう)の見識が示されています。

<評唱:禅的批評の書き下し文>

無門(むもん)曰(いわ)く、

もし這裏(しゃり)に向って、顛倒(てんとう)して
一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し、
一転語(いちてんご)を下(くだ)し得(え)ば、

もって上(かみ)四恩(しおん)を報(ほう)じ、
下(しも)三有(さんぬ)を資(たす)くべし。

それ或(あるい)は、未(いま)だ然(しか)らずんば、
更(さら)に須(すべから)く、
尾巴(びは)を照顧(しょうこ)して始めて得(う)べし。

<評唱:禅的批評の現代語訳>

無門は言う、

「もし、この事態に対して、
逆のほうから真実の眼を持って見抜き、
ハタラキのある一句を投げかけることができるならば、

自分が被(こうむ)っている、
あらゆる恩に報いることができ、
またこの世界で悩み苦しんでいる、
あらゆる生き物を救うことも
 できるに違いない。

しかし、そういうことがまだできないとあらば、
ぜひとも、あの水牛の尻尾(しっぽ)だけは、
見届けておくことが先決であろう。」

この評唱の前半「もし、この事態に対して、逆のほうから真実の眼を持って見抜き、ハタラキのある一句を投げかけることができるならば、」という部分は、

「この公案によって、しっかり悟りの眼を開いて、それを十分に自分のものにできれば、」というような意味です。

原文には「一転語(いちてんご)」=「ハタラキのある一句」という言葉がありますが、「全人格の一大転換をもたらすような言葉」という意味だと解説書に書かれています。
禅の古典には、よく出てくる表現です。

禅が発達した中国は、詩文の国ですから、「不立文字(ふりゅう-もんじ)」(言葉では表現できない)という看板を掲げている禅宗が、他の宗派よりも、語録などの古典的文献がたくさんあるという歴史的事実があります。
(中国では、中国で書かれた禅宗の古典的な本は、どの宗派の本よりも一番多いそうです)

言葉を重んじる民族が、言葉では表現できない悟りの世界を表現しようとしたとき、逆説にとんだ公案や偈頌(げじゅ)などが生まれたのでしょう。

逆説だから簡単に理解できずに、かえって、それを理解でするために禅修行に励むという、修行者への督励(励まし)でもあるわけです。

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