無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-17

さて、偈頌(げじゅ)の後半の二句について確認いたしましょう。

「いったい尻尾(しっぽ)というやつは、
なんとも奇怪千万(きかいせんばん)さ。」

(原文「者些(しゃさ)の尾巴子(びはす)、
直(じき)に是(こ)れ 
甚(はなは)だ奇怪(きかい)なり。」

五祖法演(ごそ-ほうえん)禅師が、公案として取り出した「牛の尻尾」とはなんとも奇妙なものだというのが、無門和尚(むもん-おしょう)の偈頌(げじゅ)の締めの言葉です。

これについて、平田老師は、次のように書かれています。

この一匹の牛の一本の小さな尻尾(しっぽ)、
まことに奇怪(きかい)ではないか。

こういって尻尾の話をすると、
また尻尾にひっかかってしまう。
その尻尾を斬ってしまって一切を空にしてしまったら
今度は空にひっかかる。

もちろん空はいかんといって、
単なる有の世界に戻ってもいかん。

そこで空と有、無と有、悟りと迷い、
悟りの世界が、仏の世界というならば、
迷いの世界は、凡夫の世界である。

仏と凡夫というように二つに分けられておる間は、
まだ本当に徹底(てってい)していない。

本当に徹底したところは、
仏凡一体(ぶつぼん-いったい)である。

いや、もう仏と名づけることも、
凡夫と名づけることもできない。

逆を返せば、仏でもあり、凡夫でもある。

そういう仏凡一体の世界というのが、仏の世界である。

この仏もなく凡夫もなくなったところが、
本当の意味の仏の世界であります。

(平田晴耕著『無門関を読む』より)
この平田老師の文章は、偈頌(げじゅ)の解説にとどまらず、禅の究極の理想を説明されています。

「悟り」の世界を十分に体験しながら、「悟り」にとらわれず、「迷い」に満ちた現実世界の中で、社会貢献の働きをしていくということです。

このような境地を「仏凡一体(ぶつぼん-いったい)」と表現されています。

禅道場では、「悟り終わって、いまだ悟らざるに同じ」境地をめざせと教えられました。

まずは、「空(くう)」ということを十分に悟る必要があるのですが、「空(くう)」にとらわれずに、「現実世界」で社会貢献できるようになるには、「悟り」の臭みをとっていかなければいけないという意味です。

禅の教えを心の杖(つえ)として、あちらにつまずき、こちらにつまづきしながら、人生という長い旅を歩いていくのが、私たち在家の禅者の偽らざる姿でしょう。

仏さまの境地でもなく、かといって、煩悩(ぼんのう)に完全に支配された凡夫でもなく、その中間の道を歩んでいくことが、結局は、「仏凡一体(ぶつぼん-いったい)」という姿に近いのではないかと思います。

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