無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」

2014-08-06

さて、無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」に対する無門和尚(むもん-おしょう)の「頌(じゅ)」を見ていきましょう。「頌(じゅ)」とは、公案についての見解を禅的な詩で示したものです。

<頌(じゅ):無門和尚による禅的な漢詩>の書き下し文

頌(じゅ)に曰(いわ)く

他(た)の弓(ゆみ)を 挽(ひ)くこと莫(なか)れ、
他(た)の馬に 騎(の)ること莫(なか)れ。
他(た)の非(ひ)を 弁ずること莫(なか)れ、
他(た)の事(じ)を 知ること莫(なか)れ。

<頌(じゅ):無門和尚による禅的な漢詩>の現代語訳

頌(うた)って言う、

他人の弓は、引いてはならぬ、
他人の馬は、騎(の)ってはならぬ。
他人の落度(おちど)は、言ってはならぬ、
他人のことは、知ってはならぬ。
(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)

この頌(じゅ)にも、「他」という言葉が繰り返し出てきますが、本則(公案)でいう「他(かれ)」とは異なる意味につかわれています。
公案にいう「他(かれ)」とは、絶対主体の「仏性(ぶっしょう)」をさしており、禅的な意味を込めています。

それに対して、「頌(じゅ)」でいう「他(た)」とは、自分に対する他人という相対的な普通の意味でつかわれています。
無門和尚(むもん-おしょう)は、公案に出てくる「他(かれ)とはだれか?」という問いかけの言葉をあえて別の意味に使って、公案の内容を別の側面から詩にしたのでしょう。

南禅寺の元管長である柴山全慶(しばやま-ぜんけい)老師は、この「頌」について以下のように書かれています。

「ここに言う「他」は、「自」に対する「他」、
自他相対の「他」である。

この四句は、どの一句にも集約できる。
一切の「他」、すなわち客観を尽くしきれば、
一切の「自」、すなわち主観もなくなってしまう。

その時、真のただ一人「他(かれ)」が、
現成(げんじょう)する。」

(柴山全慶著『無門関講話』創元社より)

この世は、自他という相対的な関係によって成り立っています。
自分と他人は別の存在であり、自己と世界は別の存在です。

しかし、禅は、そのような普通の客観的な認識を超えた、
瞑想の智慧を伝えるものです。

禅の三昧(ざんまい)の状態、すなわち深い瞑想状態に入ったとき、「自」「他」の対立がなくなり、
「主観」「客観」を超えた「ワンネス」の世界が開けます。

そうなったときに見えるものが、
「真のただ一人」というべき「他(かれ)」であるということを
柴山全慶(しばやま-ぜんけい)老師は書かれています。

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