禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(19)開催しました。

2015-10-20

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(18)開催しました。

この勉強会では、誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習します。
その後、『無門関』(むもんかん)、『碧巌録』(へきがんろく)など禅の古典から、現代に生きる私たちにも役立つ禅の話をご紹介させて頂きました。

この世で一番尊い人

■お釈迦さまの言葉(1/2)

偉大な禅僧であった趙州和尚(じょうしゅう-おしょう)は、
「至道無難(しどう-ぶなん) 唯嫌揀択(ゆいけん-けんじゃく)」
という禅語を愛し、弟子たちに対しても、禅の真髄を表す言葉として教えていました。

この言葉の意味は、
「至道(しどう)という最高の悟りは難しいものではない。
ただ、えり好みをすることを嫌う。」
というものです。

その心は、宇宙全体いたるところが道の中に生かされており、すべてが一つ(ワンネス)なので好き嫌いの入る余地がないのだということです。それを悟ると、「憎むとか、愛するとかいう感情にとらわれないようになる」と教えています。 

さて、趙州(じょうしゅう)が、「至道無難(しどう-ぶなん) 唯嫌揀択(ゆいけん-けんじゃく)」という禅語を大切にしていたことは、当時の禅界で有名な話でした。そこで、ある僧がこの禅語を使って、趙州(じょうしゅう)に禅問答を挑みました。

ある僧が趙州(じょうしゅう)に次のように問いかけました。
「最高の悟りは難しいものではない。ただ、えり好みをすることを嫌う。」という禅語がありますが、では、どのような境地にいたると、えり好みをしないといえるのでしょうか?」

一般論のような聞き方ですが、じつは、「あなたご自身は、本当に「えり好みをしない」といえるご立派な境涯なのですか?」と趙州(じょうしゅう)に対して鋭く突込みを入れた問いです。

禅問答は「仏法における戦い(法戦:ほっせん)」といわれることがありますが、礼儀を守りつつも、きびしく相手の境涯を確かめようとします。この僧の問いも、無礼といえば無礼ですが、それが禅問答の世界では普通のことなのです。

きびしい問いに対して、趙州(じょうしゅう)は、ただ一言、
「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と答えました。

「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ-ゆいがどくそん)」は、もともと、お釈迦(しゃか)さまの言葉であるとお経に書かれています。

お経によると、お釈迦さまは、生まれるとすぐに立ち上がり、右手は天を指し、左手は地を指して、七歩あるいて、四方を見渡すと、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ-ゆいがどくそん)」と叫ばれたと伝えられています。

もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんが立ち上がったり、歩いたり、最後に、難しい言葉を叫ぶなどということはありません。あくまでも伝説であり、神話です。しかし、禅仏教では、この話は仏教の基本を示すものとして大切にされてきました。

「天上天下(てんじょうてんげ)」とは、世界全体、宇宙全体のことをいいます。「唯我独尊(ゆいがどくそん)」とは、「私が一番尊い」という意味です。そのため言葉の表面の意味から言えば、「この世で私が一番尊いのだ」という、傲慢(ごうまん)さを感じさせるものです。

たしかに、お釈迦さまは、仏教の開祖として、仏教徒はもちろん、世界中から尊敬される存在です。しかし、自ら「自分が一番優れていて偉いのだ」といわんばかりの言葉を発したとなると、共感できずに首をかしげる人も多いでしょう。

じつは、お釈迦さまの言葉には、表面の意味とは異なる深い意味があるとされています。では、お釈迦さまの言葉の本当の意味とは何でしょうか?また、なぜ、趙州(じょうしゅう)は、お釈迦さまの言葉を質問の答えとしたのでしょうか?
どうぞ、続きをお読みください。

■ さがれ、大ばか者!(2/2)

お釈迦さまが生まれてすぐに叫んだという「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ-ゆいがどくそん)」という言葉は、禅宗ではきわめて大事な教えとされています。

「唯我独尊(ゆいがどくそん)」というと、日常用語では「この世で自分ほど偉いものはいない」という意味にとって、傲慢さを非難する言葉としてつかわれますが、仏教における意味はまったく異なります。

お釈迦さまの真意は、「人間とは、一人ひとりが、天地いっぱい、宇宙いっぱいの存在であり、私たちは誰もが尊い存在なのだ」ということです。他人と比べて自分のほうが尊いということではなく、世界の中で、ただ一人、誰とも代わることのできない人間として、全員が尊い存在なのだと教えているのです。

しかも、お釈迦さまが生まれた直後に、生まれたままの赤ん坊の姿で、この言葉を説いたというのは、人は誰でも生まれたままで、何一つ加える必要もなく、人間は人間であるというだけで、尊いのだという意味が込められています。

趙州(じょうしゅう)は、修行僧の問いに対して、「至道(しどう)という最高の悟りは難しいものではない。ただ、好き嫌いを嫌う。」とは、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ-ゆいがどくそん)を自分のものとして生きることだ」と答えたのでした。趙州(じょうしゅう)の数十年にわたる禅の修行が、質問に対して自然にお釈迦さまの言葉を呼び起こしたのでしょう。

禅の悟りとは、「全宇宙と自分は一体(ワンネス)であり、宇宙いっぱいの生命を仏さまからいただいて、生かされて生きる」ということを直覚的に知ることです。

悟りの眼から見れば、全世界が私であって、そこには、勝ちもなければ負けもありません。全員が尊い仏さまと同格の存在なのです。そのことを一面からいえば、「えり好みをしない」という無分別の態度となり、別の側面からみれば、「この世で自分が最も尊い存在であり、同時に、全員が同じように尊いのだ」というお釈迦さまの言葉になります。

趙州(じょうしゅう)は、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ-ゆいがどくそん)」という一言で、「好き嫌いをしないとは、いかなる境地か?」という修行僧の問いに見事に答えたのでした。

ところが、修行が未熟な質問者は、趙州(じょうしゅう)の答えが理解できません。「自分ひとりが尊いとは、それもまた好き嫌いではありませんか?」と一人合点で、さらに追究の質問をしました。この僧の第二の質問は、「子供がだだをこねるようなもの」と理解されています。

趙州(じょうしゅう)は、たちまち修行僧の未熟を見抜いて、彼に反省を促そうとしました。「この大ばか者!わしの答えのどこが「好き嫌い」に当たるというのだ。さあ、言ってみろ!」ときびしくやり返しました。未熟な僧は、たちまち行き詰まり、黙りこくって引き下がりました。

「悟りの世界には、好き嫌いはない」とお説教している趙州(じょうしゅう)が、未熟な修行僧を「大ばか者!」と叱りつけているのも、この話の興味深い点です。

「好き嫌いはない」というのは、この世界の本質的な面を示しています。本質的には、すべては平等一味ですが、現実世界は、千差万別の姿を現しています。その中には、良いこともあれば悪いこともあります。私たちの人生においては、悪いことは悪いとして否定し、良いものは良いとして伸ばしていく努力が必要です。

禅でいう「好き嫌いをしない」ということは、「認めるべき時はしっかり認め、否定すべきときはきちんと否定する。そのつど、自分の利害にとらわれずに純粋な気持ちで、あるべき判断をしなさい。それが、本当の意味で好き嫌いのない態度なのだ」という意味なのです。

趙州(じょうしゅう)は、未熟な修行僧に自分の未熟を気づかせるために、「大ばか者!」ときびしい言葉を投げかけたのですが、これが「否定すべきときは否定する」という禅の教えの実践なのでした。
修行僧はその場では理解できず、押し黙っただけでしたが、その後の修行の中で趙州(じょうしゅう)から貴重な指導を受けたことに気がついたことでしょう。

ポイント

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

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