禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(9)開催致しました。

2014-11-17

2014年11月14日に禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(9)開催致しました。

今回の流れと致しまして
誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習致しまして、その後、『無門関』(むもんかん)、『碧巌録』(へきがんろく)など禅の古典から、現代に生きる私たちにも役立つ禅の話をご紹介致しました。

イス禅笠倉健司 イス禅笠倉健司
イス禅笠倉健司 イス禅笠倉健司

1.即心即仏(そくしん-そくぶつ):心こそ仏である

■即心即仏という禅語(1/2)

インドから中国に初めて禅を伝えたのは、達磨大師(だるま-だいし)ですが、中国に禅宗を広めるのに大きな功績があったのが、8世紀に活躍した馬大師(ばだいし)と呼ばれる馬祖道一(ばそ-どういつ)です。

「大師(だいし)」という号は「偉大な仏教の師」という尊称ですが、何百年に一人という歴史的なレベルの人しか、「大師(だいし)」の名前に釣り合わないでしょう。ちなみに、日本では、ただ「お大師(だいし)さま」と言えば、社会科の教科書で誰もが習ったことのある弘法大師(こうぼう-だいし)空海(くうかい)を指すというほど、価値の高い尊称です。

さて、馬祖(ばそ)については、禅宗史上、大変有名な言葉があります。それは、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」というもので、「この心が、そのまま仏さまである」という意味です。

これは、誰もが持っている「心」というものは、本来、「仏さま」と同じレベルの素晴らしい宝物であり、そのことに気がつくことが禅の教えの根本だということです。

現代に生きる私たちは、「神様、仏さま」など空想の産物で、実際にはいないという無神論的な考えをすることがよくあります。あるいは、「サムシング・グレート」(人知を超えた何か偉大な存在)という神仏のようなものを認めても、その正体は解明できないと冷静に考えたりもします。このような考え方こそ、科学技術を進歩させ、現代の豊かさをもたらしたのですから、ある意味、当然の発想です。

しかし、禅では、誰もが持っている心の中に「仏さま」がいると教えています。禅の眼、瞑想の智慧によって、自分のことを深く見つめれば、「この心こそ仏さまである」であるという大真実に気がつくというのです。

坐禅をしたり、瞑想をしたり、神仏に祈ったりすることは、「サムシング・グレート」と親しむための方法といえるでしょう。坐禅によって、誰もが「サムシング・グレート」に親しむことができ、心豊かになれると教えるところが、禅の現代的な意義であろうと思います。

ところで、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」という言葉で注意すべきは、「心」といっても、自分の欲望に捉われた「小さな自我」のことを言っているのではないことです。「小さな自我」をそのまま「仏さま」と混同すると、「何をやってもよい、悪いことをしても許される」という、我がまま放題の「小人(しょうじん)」になってしまいます。

それでは、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」という禅の言葉は、何を私たちに教えてくれるのでしょうか。

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