般若心経について-その3「経題」(5)「心経」
「心経(しんぎょう)」
心経(しんぎょう)の「心」には、3通りの解釈があります。
解釈というより、サンスクリット語の3つの言葉を漢訳では「心」という一つの言葉に訳すことがあったため、3通りの意味が表現されているということです。
「心」と訳されるサンスクリット語は、①「フリダヤ」、②「チッタ」、③「マナス」の3つです。
(このあたりは、渡辺章吾著、大法輪閣刊行の『般若心経-テクスト・思想・文化』を参照しながら書いています。)
①「フリダヤ」とは、核心、精髄、心髄という意味の言葉で、『般若心経』のサンスクリット語原本では、「心」に当たる部分は、「フリダヤ」が使われています。
そのため、『般若心経』とは、「般若の智慧の核心(心髄)を伝えるお経」という意味になります。
もともと全600巻、総字数約500万字の膨大な『大般若経』の最も大事な要点を270字ほどにまとめたものが『般若心経』ですから、『大般若経』の「核心」「精髄」のお経という意味で「フリダヤ」というサンスクリット語が使われたのでしょう。
②「チッタ」とは、「知覚、思想、こころ」という対象を知覚する働きとしての心の意味だそうです。一般的な日本語の「心(こころ)」の意味に近いものでしょう。
『般若心経』の「心」は、「フリダヤ」の漢訳ですから、「チッタ」の意味ではありません。
しかし、歴史的には、サンスクリット原文は忘れられて、もっぱら玄奘(げんじょう)による漢訳経典が、中国や日本で読誦されてきました。
そのため、「心経」の「心」を「チッタ」の意味に解釈する読み方も成り立ちました。
その場合は、「般若の心」のお経という意味になります。
禅宗などでは、あえて「般若の心」という意味に解釈した祖師もあったようです。
語学的には間違った解釈かもしれませんが、祖師方の禅体験からの読み方ですから、そのような読み方を一概に否定する必要はないと思います。
③「マナス」というのは、「考える、イメージする」という動詞の名詞形だそうです。知性、知識、意識、理解という心の知的な働きに焦点を当てた言葉のようです。
ただ、漢訳では「マナス」を「心」よりも、「意」と訳すことが多いそうで、『般若心経』の題名を考えるには、あまり関係がないようです。
これらをまとめますと、『摩訶般若波羅蜜多心経』(まか-はんにゃ-はらみた-しんぎょう)とは、
「偉大な仏の智慧の 彼岸に到たるための 核心のお経」
ということになります。
わずか270文字余りの短い経典の中に、仏教のもっとも肝心な教えが盛り込まれているということが、このお経の題名からもわかると思います。