非思量(人間的思わくをはずした世界)

2013-11-16

私たちは、普通の日常生活の中では、自己と他者との対立の中で生活しています。
この場合の対立とは、喧嘩するという意味ではなく、自己と他者との相対的な関係の中で世界を見ているという私たちの日常的な物の見方、考え方を行っています。

それに対して「自分と、自分でないものとの対立の夢が破れる」「全く一つという世界に目覚めて」とは、自他の相対的な見地から、相対を超えた絶対的な調和の世界、すなわち、悟りの世界に入ることです。
禅の修行や各種の瞑想法が修行の目標として、まず最初に目指す境地です。

しかし、それだけでは「悟り」にとらわれてしまいがちなので、まだ足りないといいます。
今度は、「その目覚めたことも忘れ果ててしまって」という「悟り」を忘れて悟り臭さをすべて抜いた、さらに先の境地が最終的な目標になるわけです。

相対を超えた絶対的な世界に目覚める初歩の「悟り」の境地でさえ、私たち凡夫には難しいことです。
しかし、さらにそれを超えて「悟り終わって、いまだ悟らざるに同じ」という高い境涯を雲門(うんもん)大師は「日日是れ好日」と表現しました。

こうなると、凡夫には想像するのも難しい境地ですが、それを沢木老師は「どうでも良いと思う」世界とさらっと日常用語で表現されています。このあたりが、沢木老師の魅力ですね。

同じことを安谷白雲老師は、「我がちょっとでも動いたら、もう、ことごとく悪日ですよ。」と解説されます。

「自分に良いように」と自己中心に考えだしたら、当然、他人と対立、競争する面が強く出てくることでしょう。その中で、ストレスを感じることも増えるでしょう。
「我」つまり、自分にとらわれることによって、「好日」どころか、「悪日」という不愉快な苦しい日々に陥るリスクが高まります。

そういう世の中の因果関係を厳しく直視すると、「我がちょっとでも動いたら、もう、ことごとく悪日」ということになります。

それにしても、私たち凡夫は、どうしても「我」「わたし」という立場で、ものを考えがちです。

「わたし」にとって「良いのか、悪いのか?」「損なのか、得なのか?」という「わたし」中心の発想法から、私たち凡夫は、なかなか抜け出せません。
このような「わたし中心」の発想は、動物としての生存本能に根ざしているので、やむを得ない面があります。

動物的な生存本能の世界、弱肉強食の世界としてこの世を生きるのは、普通の生き方です。そのような動物的な本能を超えて、すべてが調和した「大きな愛の世界」として生きるように私たちを導いてくれるのが、宗教の教えです。

宗教にも、様々な教えがあり、それぞれに良さがあると思いますが、禅仏教では、禅の修行により、「自分と自分でないものとの対立の夢が本当に破れて、全く一つという世界に目覚めること」を目指すものと言えるでしょう。

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