非思量(人間的思わくをはずした世界)

2013-11-16

「自他の対立が破れて全く一つとなった世界」について、沢木老師は、別の角度から解説されています。

<法句(沢木老師の言葉)-2>
幸不幸、偉い偉くない、好き嫌い、よい悪い、
これらのことで娑婆(しゃば)世界は、大騒ぎをやっておる。

どうもない世界。
―これが非思量(人間的思わくをはずした世界)である

「幸不幸、偉い偉くない、好き嫌い、よい悪い」というのは、相対的な価値観の世界の話です。
私たちが生きている世間、すなわち「娑婆(しゃば)世界」では、他者と背比べをして、勝った負けたと大騒ぎをやっているわけですが、仏さまの世界は違います。

そのような相対的な価値観を超越した世界であり、沢木老師の言い方では、「どうもない世界」です。

「非思量」(ひしりょう)とは、道元禅師が坐禅のやり方を説明した『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)に出てくる言葉です。
『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)では、

「兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して
箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。

不思量底(ふしりょう-てい) 如何(いかん)が思量せん。
非思量(ひしりょう)。」
(道元禅師『普勧坐禅儀』より)

という形で出てきます。

この部分を直訳すれば、

「どっしりと坐禅して、不思量底を思料しなさい。
  不思量底とは、どのように思量するのであろうか? 
  それは、非思量である。」
ということになりますが、これだけではさっぱりわかりませんね。

「非思料」とは、道元禅師の坐禅の核心を伝える言葉の一つですから、その深い意味は、私にも、充分に理解できないのですが、少なくとも、「非思量」(ひしりょう)とは、「不思料」(ふしりょう)の内容を説明した言葉であることは分かります。

「非思量」(ひしりょう)と「不思料」(ふしりょう)とはわずか漢字一字の違いですが、一字の違いで大きな違いを表せるのは、漢文(古典中国語)の優れた点でしょう。

さて、「不思料」(ふしりょう)は、「思料せず」と訓読でき、「意識的に考えないようにする」というニュアンスがあるように思います。
これに対して「非思量」(ひしりょう)は、強いて訓読すれば「思料にあらず」となり、「考えるということではない(考えることを超えている)」というニュアンスでしょう。

この「非思量」(ひしりょう)を沢木老師は、「人間的思わくをはずした世界」と説明されます。
それは、「どうもない世界」であり、あるがままの世界をただありがたいと正受する(しょうじゅ、正しく受け止める)こととも言えるでしょう。
神さま、仏さま、サムシンググレートに支えられて、ありがたくも「生かされて生きている」と心の底から深く感謝している状態ということではないでしょうか。

このような心になれば、「日日是れ好日」(にちにち-これ-こうにち)という世界が自ずと開かれてくるのでしょう。
そういう境涯に私たちを導いてくださるのが、禅仏教の教えであると思います。

Copyright© 2012 二代目、三代目経営者を公認会計士が支援する有徳経営研究所 All Rights Reserved.