12月20日「禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会」開催しました。

2016-12-25

今年最後となりました禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会開催しました。

※次回は来年2017年1月26日(木)の開催になります。

この講座では、2500年の歴史をもつ禅的瞑想法を誰でもできる「イス禅」としてお伝えします。

禅では、誰もが持っている心の中に「仏さま」がいると教えています。禅の眼、瞑想の智慧によって、自分のことを深く見つめれば、「この心こそ仏さまである」であるという大真実に気がつくというのです。

坐禅をしたり、瞑想をしたり、神仏に祈ったりすることは、「サムシング・グレート」と親しむための方法といえるでしょう。坐禅によって、誰もが「サムシング・グレート」に親しむことができ、心豊かになれると教えるところが、禅の現代的な意義であろうと思います。

禅は、2500年前のお釈迦さまの時代から、仏教の大事な瞑想修行の方法として受け継がれてきました。しかし、本格的に坐禅をするには、指導してくれる道場が少ない、初心者にとってかなり足が痛くて苦痛であるなどの問題があります。そこで、この勉強会では、誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習します。という内容で月1回開催しております。

今回は無門関第七則から禅問答についてを解説頂きました。

趙州(じょうしゅう)は、中国禅がもっとも創造的であった時代、唐の後期に活躍した祖師(そし:禅指導者)です。何気ない言葉の中に鋭い禅の機鋒を現わし、その言句は生き生きとした活力にあふれていると現代にいたるまで称賛されています。禅の古典の中では、スーパースターであると言えるでしょう。
この禅問答は、趙州が日常生活に即して禅の真髄を端的に示したもので、一見単純にみえて、深い内容を蔵するものとして有名です。

禅では「釈迦(しゃか)も達磨(だるま)も修行中」ということを良く言います。「仏教の開祖であるお釈迦さまも、中国に禅宗を伝えて禅宗初祖と仰がれる達磨大師(だるま-だいし)も、今なお、浄土で修行を続けておられる。」という意味です。
禅の修行には終わりがないもの、どこまでも自分を磨いて行くことが可能であることを示しています。同時に、少しくらいの修行や悟り体験で慢心して、天狗になってはいけないと修行者を諫める言葉でもあります。

禅を学ぶときは、いつでも新参者のつもりになって、謙虚にかつ新鮮な気持ちで学ぶことが大事であるとされます。自分は修行歴が長いとか、これだけの実績があるとか、そういう慢心は、さらなる進歩を妨げるものです。つねに初心の気持ちを忘れず、心を白紙にして素直にものごとに取り組む姿勢は、それだけで達人の境地に近いと言えるでしょう。禅にかぎらず、人生すべてに当てはまることだと思います。

このように謙虚で心を白紙にすることは簡単そうに見えて、じつは難しいものです。
「知る者は恐れる」という言葉がありますが、逆に何も知らない人、人生経験が浅い人ほど、慢心しやすい傾向があるでしょう。もちろん、怖いもの知らずで、新しいことにチャレンジしていく姿勢は、それはそれで大いに評価すべきものです。しかし、チャレンジして困難にぶつかるごとに、「世の中というものは簡単にはいかないものだ」ということが次第に分かってくるのではないでしょうか。困難を知るからこそ、慢心せずに、初心者の気持ちで物事に取り組むことができるのでしょう。チャレンジして失敗すると、すぐに逃げる生き方をしていると、そのような本当の素直さは身につかないと思います。

私たちは、ビジネスであれ、何であれ、ある程度経験を積むと、しばしば慢心して分かった気になりがちですが、それでは進歩が止まってしまうということをこの禅問答は、最初に示しています。まったく耳の痛い指摘です。

その点、謙虚さを大事にして慢心せずに進歩し続けたのが、「経営の神様」といわれた松下幸之助氏でした。

<松下幸之助の名言より>

「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である。」
「わからなければ、人に聞くことである。」

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。
私は学問のある他人が全部、私より良く見え、
どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

「人の言に耳を傾けない態度は、自ら求めて心を貧困にするようなものである。」
「いくつになってもわからないものが、人生というものである。
わからない人生をわかったようなつもりで歩むほど危険なことはない。」

「なすべきことをなす勇気と、人の声に私心なく耳を傾ける謙虚さがあれば、
知恵はこんこんと湧き出てくるものです。」

趙州和尚から、当たり前のことを2回も立て続けに問われて、僧は、はっと気が付きました。当たり前の日常生活の中に仏法があることを悟ったという意味です

人生でも、ビジネスでも、当たり前のことを当たり前にできれば、それだけで「達人」といえるでしょう。そのことを臨済禅師(りんざい-ぜんじ)は、「無事、これ貴人」といわれています。

しかし、実際には、状況を甘く見たり、逆に妙に考えすぎたり、あるいは疲労からミスしたり、時にはつい怠けたりして、当然やるべきことを、なかなか、きちんとできないのが、私たち普通の人間の姿ではないでしょうか。

特に想定外の事態が急展開しているようなときは、そもそも何をやるべきなのか、何が当たり前のことなのか、判断がつかない時もあります。福島原発事故などは、一旦ことがおこれば、現場の人が一所懸命努力しても、簡単には事態をコントロールできない例といえるでしょう。そこまで行かなくても、ビジネスにおいて、日常生活において、どうしたらよいのか?と途方にくれることがあるでしょう。

ビジネスの世界では、想定外のことが発生して対応を間違えるようなことがしばしば起きるものです。そのようなときに、慌てふためいて取り乱すのか、あるいは冷静さを保てるのかによって、結果が大いに異なるものですが、それは日ごろの心のあり方におおいに関係します。私のような凡人は、あわてたり、落ち込んだ入り、不安に駆られたりということが多いのですが、禅の教えを学んでいると、あわて方のレベルが大分改善される気が致します。

さて、安谷白雲老師は、この公案の趣旨を名調子で提唱されています。
『無門関提唱』(安谷白雲)から以下に引用いたしましょう。

皆さんが毎日やってることがそのまま仏法だ。
そこに、毎日の生活においていささかも不平がないか。不安がないか。
まどいがないか。それが無いとはっきり言えるんなら一寸話せるが。

今のままの状態でいて、ということじゃない。
どう情勢が変化しても、自分がどんなところへ突き落されても
そこに不平も不安もまごつきも何んにも無い。

逆にどんなに自分が急に幸福になっても、それでびっくりして
ノイローゼになったりしないという本当に確信があるならまあちょいと話せる。

それが確信がないんだとそう口だけで寝たり起きたり泣いたり笑ったり、
それが仏法だなんて言って見たところで三文の価値もない。

単に不安がないだけではいけません。
そこに絶対価値を見出すという一つの転機がなくちゃいけない。
そういう体験がなくちゃいけない。

なるほど絶対価値だということにはっきり目覚めなくちゃ。
何になっても絶対価値だと本当にめざめたら、もうまごつくことはない。

その絶対価値とは一体何だろう。こいつはもう少し分析してお話をしましょう。

一人一人が絶対価値だ。いつでもその時その時、その場その場、
そのことその事が絶対価値だとはどういうことなんだ。

円と中心ということを考えてごらんなさい。
中心は円の生命を握っていると言えるでしょうね。
中心がちょっと動けば円は全部動く。中心が消えると円は全部消える。
中心がなくなったけれども円は残ってる。そんなことはない。

そこで我は宇宙の中心なりという自覚が起って来なけりゃいかない。
これは思想に落しての説明ですよ。

自己の絶対価値というのを思想的に落して説明すると、我は宇宙の中心なり。
自分の一言一行みな宇宙の中心なり。それが宇宙を動かしているんだと。

自分がなくなれば宇宙がなくなる。確かに無くなるんですよ。
皆さんが宇宙と考えているのはみんな自分の見ている宇宙なんだから。
外の人の宇宙とは違うですよ。銘々が宇宙に一人きりの存在なんだから。

そうすると又こんな疑問が出る。だって宇宙というものは一つでしょう。
それで銘々が中心だというと、
一つの円に中心がそんなにいくつもあっちゃおかしいじゃありませんかという
疑問が出るかも知れん。

何という先生だったか覚えてないけれども、その人は面白い説明をしている。
同円異中心論と言ってね。中心は無数にあってもいいんだと。円は一つなんだと。

その先生の説明はその無数に中心のある、そうすりゃ円は無数にあるにきまってるが、
中心に応じただけの円があるんだから、その円を無限大にしてみろと言うんです。
そしたら皆かさなってしまうじゃないかと。

理論はそうだろうね。宇宙は無限大なんだから。
そこで銘々が皆中心でそれで円が一つでもいいんだと。
そうも見れるんでしょう。

とにかく我々の一挙一動が宇宙を動かしているという。
そういう存在だということに、本当に目覚めれば
自己の絶対価値というものに本当にめざめる。
そうすると我々の一言一行は絶対価値そのものだと。比較を絶しているんだと。

そこで何になっても落ちつけるという満足が出来る。
そうして何になっても喜んで生活のできる立脚地がそこに出来るでしょう。
そうなったとして考えてごらんなさい。毎日の一挙一動どれもみな絶対価値だ。

そういう人になるとその人の生活は充実してるというか、どこにもすきはない。
生より死に至るまで充実した生活がずーっと続くんです。空虚な所がどこにもない。

だから何かが入って来る余地がないんです。その人の生活の中へ。
魔のさす余地がない。不平や不満が出て来る隙がない。充実した生活だから。

そういう立場でご飯をたべたり、或は御不浄に行ったり、お掃除をしたり、
お客さんの相手になったり、商売しても、電車に乗っても、皆それなんです。
それを宇宙大の生活を常に続けておるというんです。

宇宙大の生活そういうことに目覚めよというのが、この修行の要点なんです。
めざめたらその実行を、ぐんぐん磨いて行って、
それが本当にどこ迄も充実していくように。
禅の修行といったって要領はそれだけのことなんです。

(『無門関提唱』安谷白雲著より)

それぞれが、自分の絶対価値に目覚めれば、宇宙大の人生を生きることができる、
ということが、禅の要諦だと白雲老師は提唱されています。

私たちは、常に他者との関係の中で生きています。他者の中には、人や組織だけではなく、自然も含まれますが、人間関係だけに限ってみても、無意識のうちにお互いに影響し合って生きています。職場においても、家庭においても、友人関係においても、他の人の影響をうけずに生きることはできませんし、影響を与えないということもないでしょう。心理学では、感情は伝染するというようですが、お互いに心と心を共鳴させて生きているのが人間です。

その共鳴関係の範囲は宇宙大であるというのが、仏教的なものの見方です。人間だけではなく、動植物や鉱物や星や宇宙空間にも、何らかの心があり、心と心で共鳴し合って生きている、お互いに支えあって生きているということです。

松下幸之助氏は、「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。」と言います。感謝の心は、まわりの人はもちろん、天(宇宙)に共鳴して、実際に幸福を増進してくれるのでしょう。反対に、怒りや貪(むさぼ)りなどの煩悩(ぼんのう)という悪い心は、天(宇宙)に共鳴して、不幸を増進してしまうのではないでしょうか。

私たちの一挙一動が、宇宙に共鳴し、自分に帰ってくるということ、その意味で、自分は人生の主人公であり、一人ひとりが絶対価値であることを自覚することが禅の教えなのだと思います。

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

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