「芸術は、バクハツだ!」ー7
しかし、平和な日本に育った私たちは、「死を覚悟してチャレンジする」という厳しさはなかなか持ち得ないところです。
やはり「死の覚悟」という言葉を精神的に解釈せざるを得ません。
実は、禅堂においても、摂心会など本格的な修行の会では、修行者に対して「座布団上で死にきれ」という励まし方をよくします。
また、「大死一番(たいしいちばん)」という禅の言葉もあります。
これは、精神的宗教的に深い意味を持った表現です。
岡本太郎の戦場体験とは異なりますが、1千数百年以上の禅宗の歴史の中で、優れた禅者が後進のために残してくれたありがたい言葉です。これを味わってみましょう。
「大死一番」の出処は、『碧巌録(へきがんろく)』の第41則です。
「趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が投子に聞きました
大死底(だいしてい)の人、却って活する時如何?」
(大死底の人が、大死一番からよみがえって大活する時はどうだ?)
この公案(問答)について、安谷白雲老師の提唱を引用しましょう。
<安谷白雲著『碧巌集独語』より>
「今日の公案は、死活ということ、そこににらみをつけて、是とか非とか、逆とか順とかいうとる。
死とは、今までの分別妄想、六識、七識、八識という後天的にくっつけてきたやつを全部お掃除することだ。
悟った眼から見れば、それらのものも、みんな活きてくるが、一反は全部殺さねば、本当の自己にお目にかかれん。
分別というものは、すべて、妄我を夢見てから、曲がった物差しで、こしらえ上げたニセ物だよ。
だから、全部すてねば、真如(しんにょ)の名月は拝めない。
捨てることをぬきにして、得られるものがあると思うな。(中略)
この捨てるということ、死ぬということを思想的にいうとき、無自性といい、無我といい、空というのだ。諸法無我だ。」
坐禅をして心が空じられた時が、「大死一番」です。
その時「本当の自己にお目にかかれる」というわけです。「見性」という悟り体験のときと言えるでしょう。
しかし、それにも、深い浅いがありますから、一度の「見性体験」で修行が終わるわけではありません。禅の世界は、大変奥深いものがあります。
禅においても、精神的に「大死」と表現される経験によって、生命が一層輝き出します。
岡本太郎の「死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。」という言葉は、「命がけで夢にチャレンジしろ」という意味だと思いますが、
多少の禅体験のある私には、いっそう深い味わいを感じる言葉です。