『禅と陽明学』より「儒教と老荘と禅」
2014-03-28
本来、発展分化していく性格を持っている私たちの現実に即して、現実生活の中で、いかに人格を整えていくかということが、「孔孟(こうもう)系統」、つまり儒教の主眼となります。
そのため、『論語』のように、神秘や迷信を説かずに、日々の周囲との関係において自分を反省することで成長をめざすという教えになります。
>すべてこれは我々の現実の生活、現実の存在、現実の人間、
>人格というものをどう整えるか。
>これにどう手を入れ、どう反省し、
>どう剪定(せんてい)、果決、
>即ち本来の欲望であるところの
>己れに克(か)って修めていくか。
>これが孔孟(こうもう)系統の主眼、建前である。
>どこまでも発展し、分化し繁栄するものを、
>それに即して手を加え、これを整えてゆく。
(『禅と陽明学』上巻p.157)
欲望を野放しにして奔放に生きるという芸術家的な生き方ではなく、『論語』にある「己の欲せざる所は、人に施(ほどこ)すなかれ」(自分がして欲しくないと思うことは、他人にとっても同じなのだから、他人にすべきではない)という、他者への気づかい、思いやりの精神が、儒教の一つの核心であろうと思います。
このような儒教的精神を民族として最もよく身につけているのは、実は、儒教の本家であるはずの中国ではなく、現代の日本人ではないでしょうか。
東日本大震災の際の被災者の皆さんの秩序と思いやりのある行動は、世界中から称賛されました。
江戸時代に、武士の学問として真剣に学ばれた『論語』の教えが、私たちの精神のDNAの中に受け継がれているように思います。
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