『禅と陽明学』より「聖徳太子」
自分の出身国である釈迦族が、隣の強国であるマガダ国にほろぼされるのを因果の理法によってやむを得ないと見たお釈迦さまに対して、聖徳太子のとった態度はまったく異なると、安岡先生は書かれています。
聖徳太子が仏教を日本に入れるに当たって、
最も煩悶(はんもん)されたのは、そこだと想像される。
わが国の場合は、太子は、敢然(かんぜん)として、
インドの出家仏教を捨て、在家仏教を取られた。
民族の栄枯盛衰(えいこせいすい)を超越して、
人間の根本理法に生きようとする出家仏教に対して、
どこまでも佛法と王法とを一致させて、
自覚・覚他〈じかくかくた:自らさとり・他人をさとらしめる〉
の精神と同時に、鎮護国家(ちんごこっか)とも合致せしめる
在家仏教を取られた。
これが日本が仏教によって亡びなかった
所以(ゆえん)であります。
これがなかったら、あるいは日本は
インドと同じように仏教で亡んだかもしれない。
(『禅と陽明学』p.53)
聖徳太子は、自分の一族が滅びるのを運命として甘受したお釈迦さまの態度に飽き足らず、インド仏教の出家主義を捨てて、在家仏教を選ばれたのだと、安岡先生は解釈されています。
『日本書紀』の記述によれば、聖徳太子の時代に、最も熱心で偉大な仏教者は、皇太子の地位にある聖徳太子ご自身でした。
聖徳太子は、法華経などに対する日本で最初の注釈書(『三経義疏』さんぎょう-きしょ)を書かれたとされ、聖徳太子自筆とされる稿本まで今日に伝わっています。
『三経義疏』が本当に聖徳太子の作であるのかどうか、今日では疑う学説も多いのですが、それはさておき、伝説上の聖徳太子は、仏教経典の高度な注釈書を書けるほど、優れた仏教理解を持っていた方であるとされています。
しかし、聖徳太子は、最後まで出家せず、僧侶にはならずに、在家のまま、皇太子として推古天皇を助けて、政治の第一線にありました。
安岡先生は、そのことをとらえて、「鎮護国家(ちんごこっか)とも合致せしめる在家仏教を取られた」と解説されます。
聖徳太子は、意図的に、国家の安泰と仏教信仰を両立させるべく、在家仏教を選んだのだという見方です。
さらに、
「これが日本が仏教によって亡びなかった所以(ゆえん)であります。これがなかったら、あるいは日本はインドと同じように仏教で亡んだかもしれない。」
と聖徳太子の決断を高く評価されています。
ここで安岡先生のいう「聖徳太子」は、あくまでも「伝説上の聖徳太子」ですが、それにしても、このような見方で「聖徳太子」を評価するのは、普通の仏教学者には思いつかない観点ではないでしょうか。
陽明学を学び、歴代総理大臣の心の師として、終生、日本の現実政治にかかわり続けた安岡先生ならではの観点であろうと思います。
仏教の教えは、個人の精神的な救いが中核になっています。そのため、ついつい、社会全体への影響といった大きな観点を忘れがちになります。
安岡先生は、仏教を学ぶにあたっても、社会への影響の観点を忘れないように、私たちにご注意されているのです。
安岡先生は、聖徳太子の話をしているようで、じつは、それを読んでいる私たちに、「現実社会とのかかわり方を間違えるなよ」と呼びかけて下さっているのだろうと私は思います。