『禅と陽明学』より小乗と大乗(その2)
お釈迦さまの時代はもちろん、その流れを直接受け継ぐスリランカやタイなど南方の仏教(いわゆる小乗仏教)では、現代においても、出家者としての戒律が厳格に守られています。
まさに「出家道」というべき厳しさで、私たち凡夫から見れば、日常生活がそのまま修行であるという感じが致します。
反面、一たび、出家してしまうと、世間に生きる普通の在家の人とは、かなり生活が異なる環境に身を置くことになりますから、悩める在家の凡夫からすると、僧侶に距離感を感じることもあるかもしれません。
私は、現代の南方仏教にことはよく知りませんので、南方仏教がそうだとはいいませんが、お釈迦さまがお亡くなりになって数百年過ぎたころ(西暦紀元1世紀ころ)のインドでは、そのような問題意識が起こってきました。
当時のインドの仏教徒は、仏教の本来の理想である「智慧」(ちえ)と「慈悲」(じひ)の両立のためには、もっと「慈悲」に重点をおいた新しい仏教が必要だと考えました。
「慈悲」に主眼をおいて仏教を改革しようとする運動が、大乗仏教という宗派を生み出すことになったのです。
そのため、大乗仏教では、「出家した者だけが救われたのではしようがない。出家たると在家(ざいけ)たるとを問わず、救われなければならない。」(『禅と陽明学』上巻P.71~72より)という理想のもと、出家道による「智慧」の体得よりも、広く一般民衆を救わんとする「慈悲」の精神が強調されました。
中国や日本の仏教は、このような大乗仏教の流れを受け継いでおり、中国でうまれ、日本に受け継がれて磨き上げられた禅仏教も、大乗仏教の流れにあります。
とはいえ、禅仏教は、「自力」の教えといわれるように、まずは、坐禅修行によって自分の修行を深めることが求められます。
私が学生時代にであった人間禅道場では、「非力(ひりき)の菩薩(ぼさつ)、人を救わんとして溺れる」という言葉を教えていただきました。
菩薩(ぼさつ)とは、広い意味では、大乗仏教の理想に生きようとする仏教徒の総称です。「慈悲」の働きを大事にする大乗仏教の理想から言えば、溺れている人、つまり世の中で苦悩している人を見たら、それを助けようとすべきです。それこそ、「菩薩」のあるべき姿であるわけです。
しかし、助けようとする人が、「非力」(ひりき)であると、つまり人を助けることができるような十分な力量がないと、助けに行ったはずが、自分も一緒に溺れてしまい、人を助けることも自分を助けることもできなくなるという意味です。
「自利利他」(じり-りた)という言葉が示すように、まずは、「自利」という自分を救うための修行を十分にして、ある程度、力がついてから「利他」という他を救うことに力を入れなさいという教えでした。
禅の修行には、「自利」から「利他」へという順番があるということだと思います。
私たちは、普通の社会人ですから、これから出家することは、家族や仕事の関係で難しいものがあります。
しかし、出家できなくても、まずは、仏教の「智慧」を学び、自らの心の平和を得るとともに、そこで養った力で「他を救う」こと、つまり、ささやかでも社会に貢献するように努力することが大事なのだと思います。