『禅と陽明学』より小乗と大乗(その2)
仏教の教えは、智慧と慈悲の二つの側面があるといわれます。
仏教でいう「智慧」とは、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識能力のことです。「智」は相対世界に向かう働きを表し、「慧」は悟りを導く精神作用の意味になると大辞泉では説明されています。
平たく言えば、「智慧」とはブッダの悟りの内容を学ぶことです。自分がブッダの境涯に近づくための学びや修行のひとつの成果が「智慧」であり、自己を救うためのカギになるものであると思います。
それに対して「慈悲」とは、仏教で説くあわれみの心,いつくしみの心、他を愛し慈しむ心です。
サンスクリット語にさかのぼれば、「慈」は、人びとに楽を与えることを意味し、「悲」は、人びとの苦を抜いてあげることを意味するとされます。
仏教において、最も大切な心の働きが、「慈悲」の心であり、他を救おうというする心です。それをより良く働かせるために、「智慧」を学ぶという関係になります。
大ざっぱに区分すれば、「智慧」とは、「自利」(じり)であり、自分の悟りのために努力することです。
「慈悲」とは、「利他」(りた)であり、他を救うために尽くすことです。
この二つが合わさって「自利利他」(じり-りた)を二つとも完全円満に実践するのが、仏教の理想といえるでしょう。
もちろん、凡夫である私たちには、はるかな高みにある理想ですが、仏教の教えとしては、「自利利他」の実践によって、その人は救われていきます。
修行の結果、心の平和と安らぎを得た「涅槃」(ねはん)という心の理想状態にたどりつくことができれば、文字通り「成仏」(じょうぶつ)、つまり「仏さまの境涯に成る」ことができます。
キリスト教では、「神様」は、唯一絶対であり、この世界を作った造物主(ぞうぶつしゅ)として、あらゆる奇跡を起こすことのできる偉大な存在、人間とは異なる次元にいる特別な存在と捉えます。
その点、仏教では、「仏さま」を人間とは隔絶した存在とはとらえずに、普通の人でも、ブッダに学び、努力によって近づいていける理想の人間像をとらえるところに、仏教に特色があると思います。
安岡正篤先生の『禅と陽明学』を読みますと、まず仏教全体を見て、「小乗」(しょうじょう)と「大乗」(だいじょう)の違いについて、詳しく解説されています。
一見すると、安岡先生は、小乗仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)の違いを検討しているに見えます。
しかし、安岡先生としては、仏教における「智慧」を学ぶ努力を「小乗」としてとらえ、他を救おうとする「慈悲」の働きを「大乗」としてとらえて、現代に生きる私たちに仏教の教えの本質を両方の側面から解説して下さっているように、私には感じられます。