『禅と陽明学』より小乗と大乗
さて、安岡先生の解説にしたがって、小乗仏教と大乗仏教の特徴を確認してみましょう。
<小乗の形式主義>
しからば小乗というものはどういうものかと言いますと、
これはそもそも、釈尊(しゃくそん)を尊崇(そんすう)し、
釈尊を信仰し、釈尊の言葉、行ないすべて釈尊に学ぶ、
ことごとく釈尊の模倣(もほう)をする、
釈尊の言われなかったこと、
なされなかったことは受け付けない。
ことごとく、釈尊(しゃくそん)によって考え、
釈尊によって行(ぎょう)ずるというように、
だんだん形が決まってくるというか、限っている。
つまり、釈尊というものに限っている。
そうするとそこに一つの形式が生ずる。
そういう意味からいうと、
小乗はどちらかというと形式を重んずる。
形にとらわれるというと悪いが、いわば形式主義的である。
これは小乗の一つの特徴であります。
(『禅と陽明学』上巻P68より)
小乗仏教は、時代的にも、内容的にも、お釈迦さま(釈尊:しゃくそん)に直結する教えです。お釈迦さまの出家主義を受け継ぎ、厳しく戒律を守るという特徴があります。
「釈尊(しゃくそん)を信仰し、釈尊の言葉、行ない、すべて釈尊に学ぶ」という小乗仏教の姿勢は、まさに本来あるべき仏教徒のあり方といえるでしょう。
しかし、恵まれた王子の位を捨てて出家されたお釈迦さまのような、求道心(ぐどうしん)を誰もが持てるわけではありません。
かりに、仏教によって救われたいと願っても、誰もが出家できるわけではなく、家族のため、仕事のために、在家の生活を続ける方も多いと思います。
お釈迦さまのように行うことができるのは、厳しい戒律(かいりつ)を守れる出家者だけということになります。そのようなところが、「形式主義的である」といわれるゆえんでしょう。
ちなみに、東南アジアに伝わっている南伝仏教では、日本よりも、はるかに戒律が厳しく守られています。
日本では、鎌倉時代の親鸞(しんらん)以来、僧侶と言えども、正式に結婚する宗派ができ、明治以降、妻帯は普通のことになりました。僧侶が、お酒を飲んだ入り、魚や肉を食べることも当たり前のことになっています。
しかし、南伝仏教では、それらは、すべて戒律違反であり、出家した僧侶ができることではありません。
南伝仏教の教えに親しんでいる東南アジアの人々からみれば、日本の僧侶は、在家者とほとんど同じに見えるのではないでしょうか。
どちらがエライというわけではありませんが、同じ仏教といっても、日本と東南アジアでは、形式面で大きな違いがあるだけに、歴史の違い、文化の違いを痛感いたします。