『論語』の言葉-3「人知らずして、愠(いから)ず」②
孔子の弟子は、三千人もいたといわれ、その中で、主だったものだけでも72名いたといわれます。三千人というのは、かなり誇張があると思いますが、数十名の有力な弟子がいたことは間違いないでしょう。『論語』に登場する弟子だけでも、28名おります。
そのような弟子たちから見れば、孔子ほどの人物が放浪生活を12年間も強いられ、魯(ろ)の国にもどってからも、政治的には隠居扱いですから、さぞかし、不遇に見えて、孔子のために腹を立てたこともあったことでしょう。
そのようなときに、孔子が弟子たちに向かって言った言葉が、
「人知らずして、愠(いから)ず。また、君子ならずや」
「自分が他人から評価されなくても、泰然自若として、不平らしい心を起こさない。このような人こそ、君子(くんし:立派な人格者)ではないか。」
だったのではないかと思います。
さて、これは、孔子の負け惜しみだったのでしょうか?
あるいは、長年の修養により、他人から正当に評価されないという腹立たしい気持ちを感じながらも、それをコントロールできるようになったということでしょうか?
あるいは、ただ、年をとって野心がなくなったということなのでしょうか?
私は、いずれでもないと考えています。
これは、孔子のいつわらざる本心であり、孔子は、他人の評価にかかわらず、深く静かな喜びと満足感を感じられる境涯にいたったのだと思います。
長年の学問と修養により、自分で自分を心から肯定し、学ぶこと自体を楽しめる、素晴らしい境地に至ったのではないでしょうか。
このような境涯を禅の世界では、「肯心自ら許す(こうしん みずから ゆるす)」といって、修行の到達点に位置付けています。
お釈迦様は、生まれたときに七歩あゆんで「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われたという伝説があります。
「この世の中で、ただ、自分一人が尊い存在だ」と自らが、将来、仏陀(ぶっだ:最高の悟りを開いた存在)になることを宣言されたという伝説です。
しかし、お釈迦様は、悟りを開いて仏陀(ぶっだ)になられた時には、
「山川草木 悉皆成仏 (さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」
と言われました。
「山も川も、草も木も、あらゆる存在が、みな、すでに仏と同じ存在になっている」
という意味です。
つまり、私たち人間も、全員が当然に成仏しているというのが、お釈迦様の悟りです。
悟ってみれば、自分だけが「独尊(どくそん)」ではなく、すべての人がお釈迦様と同様に「独尊(どくそん)」というべき、尊い存在であることが分かったということです。
ただし、それは、人間がもつ本来的な可能性のことであり、その可能性の本体を禅の世界では、「仏性(ぶっしょう)」といいます。誰もが、等質等量の「仏性」を持っているというのが、禅の世界観です。だからこそ、誰もが平等に尊い存在なのです。
しかし、私たちは、通常、その尊い仏性(ぶっしょう)を持っていることも忘れて、日常生活に追われているのというのが、普通の姿でしょう。