『論語』の言葉-3「人知らずして、愠(いから)ず」①
前回の続きとして、『論語』冒頭の有名な一章の3つ目の文章について考えます。
「自分が他人から評価されなくても、泰然自若として、不平らしい心を起こさない。このような人こそ、君子(くんし:立派な人格者)ではないか。」
「人知らずして、愠(いから)ず。また、君子ならずや」
『論語』学而第一より
晩年の孔子は、外部からは、不遇に見えたことでしょう。
孔子は、貧しく、身分の低い生まれですが、苦学して、礼楽の大家として知られるようになりました。当時(紀元前500年頃)の中国では、外交においても、国内政治においても、礼楽というのが大変重要な意味を持っています。社会秩序を保つための一つの政治手法であったといえるでしょう。
孔子の理想は、前時代の周王朝初期の政治を理想とし、周王朝の礼楽によって社会秩序を復活させて、それに基づいた王道政治(道徳的な理想政治)を実現することでした。
しかし、時代は、春秋戦国時代といわれる戦国の世で、周王朝は実権がなくなり、日本の戦国時代さながらに、中国内で多数の王国が覇を競う時代です。
また、下克上の動きも激しく、孔子が生まれ育った魯(ろ)の国でも、政情不安の状況が続き、魯(ろ)の国王を国外追放して、家老格の三家族が政治上の覇権争いをし、そのうえ、家老の家臣(陽貨)がクーデターを起こした事件もあり、政治的には、大変、不安定な時代でした。
孔子の唱える王道政治は、武力よりも、学問教育と礼楽によって、社会秩序の安定をめざす理想主義であり、時代の風潮に逆らうものです。
当然、孔子も、若い時代は、政治の表舞台に起用される機会がなく、私塾で弟子たちを教育しておりました。
しかし、孔子が51歳の時、魯(ろ)の定公という君主が孔子を認め、首都の長官に抜擢しました。それから、孔子は、文部大臣、法務大臣などの職を歴任し、56歳の時には、魯(ろ)総理大臣の地位につくまでになりました。
孔子は、理想主義者ではありますが、現実的な政治手腕もあったようで、外交交渉でも成果を上げ、魯(ろ)の国内も治まり、大いに国力が復興してきました。
しかし、それを見た隣国の斉が危機感を覚え、巧妙な政治的干渉をして、孔子は総理大臣の地位を数か月で辞職しています。以後、68歳まで、12年間も、先の見えない諸国歴遊の放浪生活をしたのでした。
その後、68歳でようやく、魯(ろ)の国に戻ることができましたが、もはや、政治の表舞台に立つことはなく、もっぱら、門人の教育と古典の学問に余生をおくり、73歳でお亡くなりになりました。