『論語物語』と禅の教え
2014-04-26
次の部分も、『論語物語』と禅の教えが重なって見える部分です。
『論語物語』P. 48より
自分の善(ぜん)を誇(ほこ)らないとか、
自分の労を衒(てら)わないとかいうことは、
要するに自分を中心にした考え方だ。
自分たちの周囲にはいつも老者と、朋友と、年少者とがいる。
人間は、この現実に対して、
ただなすべきことをなしていけばいいのだ。
自分にとらわれないところに、
誇(ほこ)るも衒(てら)うもない。
禅仏教では、人間が自己にこだわる煩悩(ぼんのう)の根深さを見つめ、その根を禅という瞑想の修行によって抜いていこうします。
そのため、禅の修行者の姿を外から見れば、ひたすら自己に沈潜し、社会を忘れているように見えることもあります。
中国における儒者から禅者への批判は、多くは、社会を忘れて、自己の修行に沈潜する姿勢に対するものでした。
もちろん、ただ、自己に沈潜するだけでは、「慈悲」の精神を実現できませんから、禅仏教においても、修行が進むにつれて、実社会の中で、現実の生活に即して活動することが、大事な修行とされます。
しかし、スタートは、まず坐禅という瞑想によって、自己の心を深くあきらめるところに置かれます。
それに対して、孔子の教えは、常に実社会と密着しています。
自分の周囲にいる人々とその現実を見つめ、現実に即して「ただなすべきことをなしていけばいい」というが、孔子の教えの核心であり、聖人といわれる孔子の境涯なのだと、下村湖人先生は教えてくださっているように思います。
禅を学ぶものが最終的に目指す境地と『論語物語』の世界が重なって見えます。登る道は違うようでも、最終的に目指す頂上は同じということではないでしょうか。
←「『論語物語』と禅の教え」前の記事へ 次の記事へ「2014年4月22日「禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(2)」開催致しました。」→