メルマガ第12号:説けば、にせもの
■お前は何者か?(2/2)
それに対して、六祖(ろくそ)は、若い懐譲(えじょう)の修行のために、さらに踏み込んだ問いを投げかけます。
「(嵩山(すうざん)からやってきたというが、)いったい、何者がやってきたのだ?」という質問です。
端的に言えば、「お前は何者だ?」と問うているのです。
これには、懐譲(えじょう)も、ぐっと答えに詰まりました。
六祖(ろくそ)は、べつに履歴書的なことを聞いているのではありません。
そのような日常的なことではなく、
「お前を動かしている心とはどんなものか?」
という最も根源的で最も本質的な問題をあえて問うたのです。
「お前の心とは、どんなものか?」という問いに、仏教の教えの根本があります。
それを理論的に解説せずに、修行者に「問い」を与えて、自分で追及させるところに禅の特徴があるといえるでしょう。
懐譲(えじょう)も禅の修行者ですから、今度は、六祖(ろくそ)の問いの真意を理解しました。それゆえに答えに詰まったわけです。
懐譲(えじょう)は、六祖(ろくそ)の問いに対して、すぐに答えを出せませんでした。しかし、六祖(ろくそ)の問いをごまかすことなく、真正面から取り組みました。
懐譲(えじょう)は、六祖(ろくそ)の道場で、日々、坐禅をし、作務(さむ)をするという修行生活をしながら、8年間もこの問いを自分の公案(こうあん:禅的な問い)として工夫したといわれます。
8年たって修行が熟したある日、懐譲(えじょう)は、突然、六祖(ろくそ)の問いの答えがはっきりと分かりました。
懐譲(えじょう)は、禅の悟りを開いたのです。
懐譲(えじょう)は、六祖(ろくそ)に自分の悟りの境涯を示すため、
後世まで長く語り継がれる禅語(ぜんご:禅の名言)を残すことになります。
さて、懐譲(えじょう)は、どのように自分の悟りを表現したのでしょうか?
つづきをお読みください。