メルマガ第12号:説けば、にせもの
■懐譲(えじょう)の名言(2/3)
「悟り」とは、きわめて直観的な体験であり、言葉で表現するのが難しいものです。
トランスパーソナル心理学の理論家であるケン・ウィルバーは、
「第三の眼」(哲学とも、科学とも異なる第三の認識方法)
と説明しています。
哲学的な考察とも異なり、仮説を実験によって検証していく科学的な研究でもなく、「第三の認識の形式」であるという捉え方です。
「悟り」を認識の形式と考えれば、哲学や科学と同様、レベルに差があることが理解しやすいと思います。
博士号を目指して研究中の大学院生も科学者ならば、ノーベル賞受賞者というトップレベルの研究者も科学者です。しかし、その間には、大きなレベルの差があります。
仏教の「悟り」にも、お釈迦さまのような最高レベルのものもあれば、もっと庶民的というか、私たち凡夫でも手の届く初歩的なレベルもあります。その中間には、無数の段階があると言えるでしょう。
懐譲(えじょう)が、8年間もかけて到達した最初の悟りのレベルは、たいへん高いものであり、私のような凡夫が、とやかく言えるものではありません。
まして懐譲(えじょう)が、さらに15年間もかけて、磨き上げた悟りのレベルは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
超絶的にすごいものだったでしょうが、そのような境涯を「悟り終わって、いまだ悟らざるに同じ」などと表現するのが、禅の面白いところです。
一見すると、平凡な当たり前の人と同じような人に見えながら、何とも言えない心の深みがある境地という意味です。
金ぴかの新品の仏像ではなく、奈良の薬師寺のご本尊のように、長年の風雪により、金メッキがすべて剥げ落ちて、黒光りするお姿と似ているかもしれません。
薬師寺のご本尊の姿に、心の安らぎを感じる方には、なんとなく理解していただけるのではないかと思います。