仏に逢えば、仏を殺せ?-1

2013-02-20

岡本太郎(1911年(明治44年)生 – 1996年(平成8年)没)といえば、大阪万博(1970年)の象徴であった「太陽の塔」を設計し、「芸術は爆発だ!」という名言を残し、晩年には、バラエティ番組にもよく出演していましたから、年配の方は、覚えている方も多いでしょう。

その岡本太郎は、「週刊プレイボーイ」で若者からの人生相談コーナーの回答者をしていたことがあります。後にその名回答を集めて『太郎に訊け』という本になっていますが、これは絶版で中古でしか手に入りません。
しかし、そのエッセンスを集めた本として『自分の中に毒を持て』(岡本太郎著、青春文庫)という本が出ており、今でも簡単に入手できます。その中に、禅を学ぶ者ならば、思わず唸りたくなるような「仏にあえば仏を殺せ」という禅語(禅の名言)に関する素晴らしい解説がありますので、以下にご紹介しましょう。

<以下、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』より>
「かなり以前のことだが、京都文化会館で二、三千人の禅僧たちが集まる催しがあった。どういう訳か、そこで講演を頼まれた。ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉に、臨済禅師という方はまことに立派な方で、「道で仏に逢えば、仏を殺せ」と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。有名な言葉だ。ぼくも知っている。確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。
で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。
「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。
自分自身に対面する。そうしたら己を殺せ」

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。
その時、切実にぶつかるのは己自身だ。
己が最大の味方であり、また敵なのである。

今日の社会では、進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。

自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない。

今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。禅の真髄として、そうでなければならないと思う。」

岡本太郎は、晩年、テレビにもよく出演し、タレント芸術家と思われがちですが、絵や彫刻はもちろん、その文章も、個性あふれる名文です。

太郎自身は、禅の修行をしたことはないのですが、下手な禅僧よりも禅僧らしい鮮烈な人生を生きた偉大な芸術家であったと思います。
なかでも、上記のエピソードは、私が最も好きなエピソードの一つです。

「仏を殺せとは、己を殺すことだ」という岡本太郎氏の言葉は、たくまずして禅の真髄を余すことなく表現しているように思います。

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