内山老師「沢木興道老師の坐禅について」
さて、内山老師が、「食うために生きるにあらず 生きるために食うなり」という英語の格言にであって、「本当にそうだ」と感銘した中学1年(12歳)の時とは、1924年大正時代の終わり頃です。
大正時代といえば、日露戦争のあと1918年(大正7年)に集結した第一世界大戦を経て、日本は世界の五大国の一つに躍進し、太平洋戦争前の時代としては、最も平和で安定していた時代でした。
そのような比較的豊かで安定した時代に、「食うために生きるにあらず 生きるために食うなり」という格言に感動して、人生の方向性が定まったというのですから、内山老師も、すごい方であったと思います。
さらに、内山老師が中学3年生になる頃には、「食うために生きるにあらず 生きるために食うなり」という格言は、「生きるとは何か?」という哲学的問いに昇華されていました。
「生きるとは何か?」という問いに、悩みに悩んだ内山老師は、手当たり次第、少しでも人生について知っていそうな人に聞いて回ったそうです。
しかし、「そんなこと、分かるもんか」と変わり者扱いされるか、あるいは、とくとくと自分の信奉する「処世術」について解説されるのがオチであったとのことです。
処世術とは、辞書的には「巧みな世渡りの方法」と解説されます。現実世界で生きていくためには、「処世術」は大事な要素であると思いますが、あくまでも、お金や出世や仕事の成果のために発揮される方法(スキル)の一つです。
少年時代の内山老師が求めていた「生きるとは何か?」という哲学的問いは、いいかえれば「何のために生きるのか、生きる意味を知りたい」という人生の意味を問う「実存的な問い」ですから、「処世術」では回答にならないわけです。
実存的な悩みにとりつかれた内山老師は、自宅の近くにあった神田駿河台のホーリネス教会によく通ったそうです。
のちに半年間とは言え、神学校の先生になったくらいですから、キリスト教の教えには相当、心惹かれたのでしょう。
本文には明確に書かれていませんが、もしかしたら、洗礼をうけてクリスチャンになろうと考えた時期もあったのかもしれません。
しかし、キリスト教の教えは、内山老師の心の飢えを満たしてくれることはありませんでした。
「キリスト教といったら、まず神様から始まる。神様が合って人間を創り、人間が罪に堕ちて、イエス・キリストがそれを救うという、けっきょく神様が一番端緒であり、また根本でもある」(『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』より)という神様中心の教えに、内山老師は十分に納得できなかったのでした。