内山老師「沢木興道老師の坐禅について」
内山老師は、早稲田大学および大学院で本格的に西洋哲学を学んだわけですが、西洋哲学にも納得できなかったようです。
そして、とうとう道元禅師の『正法眼蔵』(しょうぼう-げんぞう)に行き着きます。
『正法眼蔵』(しょうぼう-げんぞう)「現成公案」(げんじょうこうあん)の巻の
「仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己をならふなり」
という言葉を読んだ内山老師は、
「自己から出発して自己を生きようというのは、
なにもオレだけじゃなくて、道元禅師もそうだったのだな」
(『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』より)
と思ったそうです。
「そういえばお釈迦さまも、自己の人生を悩んで出家修行されたのだから、自己を追求されたにちがいない」と出家に向けての心構えがしだいに育ってきました。
そして、ついに『正法眼蔵』(しょうぼう-げんぞう)「自証三昧」(じしょうざんまい)の巻を読んで、出家の志を固めたといいます。
「たとひ 知識にもしたがひ、たとひ 経巻にしたがふも、
みなこれ 自己にしたがふなり」
(『正法眼蔵』自証三昧の巻)
つまり、自分より先に道を歩いている師匠につくのも、
お経を読んで勉強するのも、
これはみんな自己にしたがうことです。
(『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』より)
「この参学に、自己を 脱落し、
自己を 契証(かいしょう)するなり」
(『正法眼蔵』自証三昧の巻)
われわれの出逢っている、あらゆる所が、
自己の生命そのものだというところに、
はじめて本当の自己に出逢う。
(『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』より)
「師匠について学ぶのも、お経を学ぶのも、
すべては自己を学ぶことである。
そしてこの参学(学び)の中に、自己を脱落して、
あらゆる存在が自己の生命そのものであることを知って、
初めて本当の自己に出逢うことができるのだ」
という『正法眼蔵』の教えは、
内山老師の心に深く響いたに違いありません。
「自己を脱落すれば、あらゆる存在が自己の生命そのものと分かり、
そこにおいて自己と出逢う」という禅の教えは、
人間の向こうに神様を立てることもなく、
現世利益を説くわけでもなく、ただただ、
「自己をならう」ことにすべてをかけるというものです。
これこそ、内山老師の実存的な悩み、
つまり「生きるとは何か?」「何のために生きているのか?」
「人生にいかなる意味があるのか?」
という心の底からの疑問に応えてくれる教えでした。