天地一杯の生命になる
脳科学が好きな人の中には、すべてを「脳」の問題として捉え、脳科学で説明しようとする方もいるようです。
しかし、現代の脳科学にとって、「心」や「意識」は「ハード・プロブレム」(難問)であって、十分に説明しきれません。
「心」や「意識」が、脳内の電気信号や脳神経の働きに何らかの関係があることは確かでしょう。
しかし、「なぜ、波長の長さが700ナノメートルの光(赤い光)を見ると、「赤」と感じとれるのか?」という単純な問題さえ、脳科学では説明できません。
まして「なぜ、ダ・ヴィンチの絵を美しいと感じるのか?」といった「美」の感覚を脳科学で説明できるかといえば、ほとんど無理ではないでしょうか。
同じように、ブッダの悟りの内容を脳科学で説明するのは、もともと無理な話だと思います。
禅仏教の「心」の捉え方は、科学的ではないかもしれませんが、そもそも、科学が「心」を十分に捉えきれないから、超科学的な説明にならざるを得ないと考えるべきでしょう。
禅では、私たちの心は、「宇宙大」であると考えます。
心によって宇宙全体とつながっていると捉えます。
それは、「宇宙の大生命」が、「心」を通して私たちに表れているという理解の仕方です。
その根拠は、2500年前のお釈迦さまの「悟り」そのものです。
さらに、お釈迦さま以後の長い歴史を通じて、インド、中国、日本などアジアを中心に数え切れないほどたくさんの人々がお釈迦さまの教えを信じ、それによって救われてきたという「歴史的な事実」が何よりの証明でしょう。
禅仏教の世界観は、近代科学によってではなく、歴史的に証明されているものであると思います。
そのような「心」を沢木老師や内山老師は、「自己」と表現していますが、表現の仕方が違うだけで、本質的な違いはありません。
さて、内山老師が、くどいほど「自己」の大切さを強調されるのは、裏を返せば、私たちは、しばしば、まわりに流されて、大切な自己を見失いがちだという警告です。
自分を見失ったら、舵の壊れた船のようなもので、まわりの水の流れに翻弄されて、いきたいところにも行けずに、水面をゆらゆらと漂うことになります。
現代では、大量の情報の海に溺れて、しばしば「自己」を見失うことが多いので、内山老師の老婆心から、私たちに「自己を見失うな」と繰り返し語りかけてくださっているのです。