天地一杯の生命になる
<内山興正(こうしょう)老師の解説-2>
それでけっきょく、坐禅というものは、
いつでもこの「一切分の一の私」が、
「一切分の一切の自己」に向っていることである。
磁石の針が北にいつもピタッと向かうように、
私の中で私はいつもピタッと「一切分の一切」に向う。
これが「宇宙とぶっつづきの自己になる」ことだ。
「一切分の一の私」とは、ひとりひとりの人間のことであり、私たち自身を指しています。
「一切分の一切の自己」とは、「宇宙の大生命」(サムシング・グレート)のことです。
自分が気づいても、気づかないでも、自己がサムシング・グレートとつながっていることに変わりはありません。
ただ、私たち自身が、そのことを忘れているだけです。
だから、坐禅をして、それを再確認しましょうと、沢木老師や内山老師は、呼びかけています。
坐禅によって「磁石の針が北にいつもピタッと向かうように」、自ずと私たちは、「宇宙の大生命」(サムシング・グレート)と向き合うことができ、ついには、ひと続きであることに気がつくことになります。本当に親切なお示しだと思います。
<内山興正(こうしょう)老師の解説-3>
われわれは修行してはじめて、
そういう天地一杯の生命になるのではない。
誰も彼もみんな天地一杯の生命をうけて、
天地一杯の生命を生きていることには間違いはない。
宇宙とぶっつづきだ。ただそれを本当に実現していない。
つまり人間には心識(あたま)があるものだから、
その分泌物で、その「先っぽ」ばかり追いかけている。
しかし、いま坐禅するということは、
その心識(あたま)を手放す―すると落っこちる。
考えたことがふっと消えてしまう。
そこに天地一杯の生命が現成(げんじょう)する。
ここでは、自己がサムシング・グレートとつながっていることを
「天地一杯の生命」と表現されています。
私たちが、「天地一杯の生命」を生きていることは、修行の功徳でもなんでもなく、生まれながらにそうなのだと内山老師は、解説されます。
私たちの「生命」は、天からのさずかりものであり、神様は、誰に対しても平等に「天地一杯の生命」を与えてくださっています。誰もが、無限の可能性を与えられ、自分の居場所を与えられているのです。
そのことに本当に気づけば、「生きているだけで、ありがたい」という宗教的な人生観に自ずと行き着くことになります。
そうなれば、全てをありがたいと受け止めることができ、悩みも不幸も、それを受け止め、乗り越えていくことが出来るでしょう。